瞳をとじて


「不思議だった、登場人物が父だと言われる、顔や体より声で分かった、電話の声だったから」とは序盤に衝撃的なほどのどアップでアナ・トレント演じるアナが口にするセリフ。エリセの映画は『ミツバチのささやき』で村に映画がやってくるのに始まり、その映画は「製作者と監督からご注意を…本気になさらぬよう」と幕を開けるが、アナはフランケンシュタインの存在を信じるし、大人だって、『エル・スール』のオメロ・アントヌッティ演じる父は映画につられて手紙をしたためるし、受け取った「女優」は自分は映画の中で何度も殺されてきたと返す。映画にはそんな、現実との分かち難さがあるというわけだ。

作中映画『別れのまなざし』のラストシーンを見て初めて、失踪したフリオ(ホセ・コロナド)が少女の写真とチェスの駒を所持していた理由が分かる。アナにしてみれば、少なくともあの10分に触れるまでは、記憶をなくした父が見知らぬ娘の写真を持っているなんて混乱していたことだろう。当初「私が父を父だと思えなかったら」と返すのも当然だ。フリオに娘と離れて暮らす男の役をあてがきしたミゲル(マノロ・ソロ)が映画の小道具である少女の写真(を撮影した写真)をためらいもなくアナに見せ、チェスの駒に興奮して上映を手配し雨の車内で彼女を引き留める姿が私には恐ろしかった。これらの場面におけるアナの心境は観客がどうとでも受け取れるように作られているが(私にはそう見えたが)、このような映画の開き方はずるいと思う。ともあれアナの結末こそが私にとっては物語の結末だ。

同じ海兵隊、同じ刑務所、同じ「ピアノを弾く美女」、そして今は案外近くの海辺にそれぞれ住む二人の男。『ミツバチのささやき』の謎が世界、『エル・スール』の謎が父、この映画の謎はもう一人の自分かと思っていたら、自分が探し求めていた「もう離れたくない場所」に過去を捨てたフリオが到達しているのではとの妄想を作中最も「映画的」な映像でもって美しく語ったあげくかつての恋人ロラにあなたはやっぱり映画監督ね、と言われたミゲルが『ラ・シオタ駅への列車の到着』のパラパラ漫画=映画を携えてバスで帰宅するところで映画は折り返し、フリオはもう一人の彼というより映画監督なる者の手で数奇な人生に放り込まれた男にも思われてくる。よくある類の「妻子を捨てた男」として得意な修理で生きていたかもと想像する。過去を失ったフリオが今は「生きていない」と知ったミゲルはそれを取り戻さんと尽力する。

自身の出演したテレビ番組をバーで見るミゲルの飼い犬カリの表情に、犬は飼い主が画面の中にも存在すると認識したらどう思うんだろうなどと考えたけれど、カリはその後は興味なさげに寝そべっているのだった。『別れのまなざし』の冒頭「ミスター・レヴィ」が遠い昔に別れた娘を探す理由を「無垢な瞳で私を見てくれる存在は他にないから」と言うのに、どこでもよそ者として生きてくるとそのようなことを望むのかと思いつつも気味悪さを覚えたものだけど、ミゲルにとって犬のカリはそういう存在だったんじゃないかとふと思った。彼がフリオの情報を得て高齢者施設に向かう日、隣人テレサ(彼女はなぜ妊婦なのか?)は預かった紐を放し、カリはフェンスのこちら側で悲しげに泣く。それはエリセの映画で外へ出て行く父に対する娘のようでもあった。犬の存在によりミゲルは謎を追う側だけじゃなく謎を持つ側にもなり得、同時に謎には当然ながら常に事情があるということが分かる。

楽園


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2023年ベルギー、ゼノ・グラトン監督作品。主人公を演じるハリル・ガルビアがオゾンの『苦い涙』と全く違う役であるところが面白い。役者はどんな役でもやれるという意味ではなく、多くの映画でマイノリティとされる属性を表しているほどちょっとした切り替えで全然違うキャラクターになると分かるからだ。

「教官はぼくらのことを何でも知ってるのにぼくらの方は名前しか知らない、彼氏とかいるんですか?」…フェンスと監視カメラに始まるこの映画の少年院とはそういう場所である。恋に興味があるのかどう思っているのか窺い知れない教官ソフィー(アイ・アイダラ)だが少年らのラップには「恋ってすてきだね」と声を掛ける。そういう仕事である。私にはこの、世間、判事、そして少年達との間に位置する立場の矛盾とままならなさがひたすら心に残った。

少年院は少年達の「目的」が外にあるとの前提で存在している。彼らが罪を犯した場で再び生きていくようにするためで、支援に内在する愛もそれ自体が彼らの目的にはならない、なってはいけない類の愛である。外に目的のないジョー(ハリル・ベン・ガルビア)は停滞し、出所を控えても脱走を繰り返していたが、内で目的となる愛を知る。ソフィーが「外ではいいけどここではだめ」と言うその外というのは彼が親から愛を得られずアラブ系だからという理由で警官に止められてばかりの、尊厳を持てない場所である。そんなところで愛が生き延びられるだろうか?この映画は内では同性愛差別は皆無だと極めて意識的に描いているが、外ではそうでないという意味なのか否か、私には分かりかねた。

のら犬


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2022年フランス、ジーン・バプティスト・ドゥランド監督作品。

思い通りになるのは飼い犬のマラバールだけ。でも思い通りになる存在なんて必要だろうか、なぜ必要なのか省みなきゃならないんじゃないだろうか。冒頭より殴るぞと暴力を口にするミラレス(ラファエル・ケナール)だが実際に暴力をふるうことはない。本当に拳をふるうはめになった時、犬は死んでしまうのだった。それは彼からドッグ(アントニー・バジョン)へ、ドッグからその外へと注がれ流れていった暴力性ゆえとも言える。それに気付いた二人は最後、それを「芸術」でもって葬送するのだった。

ガブリエル・フォーレノクターン第6番にこれは美しいものを欲している者の話だと予感する。テンペスト第3章からはこれが孤島に流された恨みの物語だと受け取ることができる。父を亡くし画家の母と越してきた荒野に囲まれた田舎町、道に人影はなく仕事もなく、麻薬を売るが自分はやらない。免許を持つ料理の腕を振るっても母の反応は薄い。ミラレスが「ピアノの先生」(ピアニストのエヴェリナ・ピッティ)の演奏をクッキーの缶片手に食い入るように見る姿からは、芸術を心得ている彼が自らを省みて生まれ変わろうとする兆しが伺える。

オープニングの一幕からして私には、ミラレスがドッグに自分と同じようであってほしいと願っているように思われた。でも彼はそのようにならない。ミラレスにとりそれは、ドッグはおれと違ってだめなやつ、こんな町にお似合いのやつだからということになる。エルザの出現によりその関係のいびつさが露わになる。やはり人間関係は二者の間だけでは完結しえない。「ドッグはまだボールを追わない」なんて冗談の時期を過ぎるとミラレスは自身の存在意義につき不安に駆られる。

ここでの女性はいい意味で物語の中心から外れされている。無責任に掘り下げることなく「普通」の女性を描いている。エルザは他愛ないことを一緒に楽しめるドッグを休暇の間のボーイフレンドとして選ぶ。「犬には謝らない」なんてセリフもいい。ミラレスはそうした現実の女性を「道で拾えるようなくず」と否定し「棺に抱き合って埋葬されたい女じゃなきゃ要らない」と語るのだった。理想を追い求めどん詰まっている彼が最後に居場所を見つけるも、そうそううまくはいかない、それでも「やっている」ラストシーンが心に染みた。

白日青春 生きてこそ


「難民は盗んだ車を無免許で運転していた」から父さんの過失は問われないと、アンソニー・ウォン演じるチャン・バクヤッ(「白日」)の息子ホン(エンディ・チョウ)は言う。そうするしかないのにそう言われてしまうんだと悲しくなるが、警察官の彼は自分の結婚式の最中に父の保釈に呼ばれた際には難民の言い分など聞かなくてもと言う周囲に一人反対していた。いずれの場合も法を守っているのだ。オープニング、バクヤッの運転するタクシーのラジオから流れる、「『本当に』困っているかどうか審査してやろう」という日本の風潮に通じる法案のニュースが見ながらずっと心の底にあり、どんづまりの物語=現実に、私達は法に対してアクションするしかないんだと思わずにいられなかった。ハッサン(サハル・ザマン)の母親ファティマ(キランジート・ギル)を診察した医師だって、気持ちがあってもあれ以上のことは出来ないわけなんだから。

パキスタンから香港へ逃れた両親の元に生まれたハッサンの名「青春」は、詩『苔』から取られている。これを朗読する授業の最中に喋っていた罰として彼と友人は放課後に詩を100回書くよう命じられるが、あんな教員がいるものだろうか。実際いるのかもしれない、あるいはあれが何かを表しているのかもしれない、例えば言葉もそんなふうに無意味に使われてはおしまいだって。この映画の(この教員のような)香港側の描写は時折陳腐にも感じられたけれど、そうでない人々の描写は「香港政府は認めないけれど」「分からないからもう一度英語で」と始まる結婚式の場面からずっと力強い。「難民」がアイデンティティなわけがない、幾つもの命、暮らしが描かれている。めがねを盗むのに登場するハッサンが、悪事に関わらなければ生きていけない事情も。

映画の終わり、密航屋の「おれも泳いで来たんだ」にふと涙がこぼれそうになり(バクヤッと彼のやりとりにアンソニー・ウォンの愛嬌が最も活かされていた)、こんなところに感動しちゃだめだ、『ゴジラ-1.0』の何が一番嫌だったって一般庶民だけが頑張ってたところだろ、これだって通じるだろ、と思うもこの映画のそれには抗えなかった。

時は止まりぬ


「蘇ったフィルムたち チネマ・リトロバート映画祭」にて観賞、エルマンノ・オルミ初の長編劇映画(1958年イタリア制作)。水力発電のためのダム建設現場の冬季監視員として雪深い山小屋で過ごす男二人の数日間…特別な場所での普通の時間が描かれる。

年長の、背の曲がったナターレ(イタリア語のクリスマス)が戸外でのあれこれの後に入ってきた室内に、すでにもう一人の男がいると分かるカットの鮮やかさ。何てことないんだけど情報のギャップで心掴まれる。再度繰り返される時はゴンドラに乗った荷物でこちらに予感を抱かせているから一発で見せる。その時に居るのが年若いロベルト。互いに気になって仕方がないが切っ掛けを掴めない二人。レコードの大音量の鳴る方を見るナターレの顔、こちらにダーツを投げてくるロベルトの顔、それぞれの命の形がそこにある。ようやくチェッカーで向かい合う時の、ナターレの他にないどアップや彼の方へ伸びてくるロベルトの指も魅力的だ。

オルミの映画でこんなことがあると思っていなかったけれど、そこ私も危ないと思ってた!(小屋の入口の傾斜の話ね)などと声を掛けたくなる系の映画である。『クオレ』は私も子どもの時読んでた!ってそうだったのか、本国ではこのような時に引かれる書物だったのかと思う。今はもうこんな「人」は存在しないと、ナターレは堰を切ったように話し出し、話し切る。人は皆同じじゃないとロベルトは真摯に返す。二人は互いにとっていわゆるかけがえのない相手というわけではない、山を下りればそれぞれ親密な家族や仲間がいるだろう、ただ人間と人間だから懐いたり助けたりし合う、そこが素晴らしい。

国立映画アーカイブの満席に近い場内に笑いが満ちるようなコメディでもあり、ロベルトの大工仕事のくだりには、落語の『小言幸兵衛』の「仏壇の位牌の向きが変わる」ネタって世界共通なんだな、そりゃそうかと思うなどした。ラジオから流れる「主婦の皆さまにお送りします」にナターレがしぶい顔でスイッチを切るのに近くの男性が笑っていたけれど、あれはこの時間から家の中にいてこまごま働いてるけどおれは主婦じゃないぞというユーモアなんだろうか(特に嫌な感じはしない)。

北極星


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2022年フランス、アイナラ・ベラ監督作品。

いったん海に出れば2週間は携帯電話も繋がらないベテラン船長のアヤットは、妹レイラと自分を「私達」と言う。妹の出産に際し、私達は祖母、母から続く「愛されなかった娘」という連鎖を断ち切らねばと。陸へ上がって生まれた子を精一杯愛するうち、ある男性との結婚話が持ち上がる…自分自身の出産という可能性が出てくる。誰かに属する安定が欲しいが愛されたことがないのでそういう関係が結べないと言いながら、新たな仕事の口を見つけキャンプしながら北の海へと足を向ける。きついとされる船上での暮らしに慣れているし天職なのだと。カメラは船の仕事や子どもとの時間といった姉妹の日常、二人が見ているものを映しながら、揺れながら進むアヤットの胸の内を語る。

女として僅かでも魅力があると厄介、男にエネルギーを取られてしまう…この後段は非常によく分かる物言いだ。アヤットは船上で遭った性被害の例をあげ、それらにつき組合の会議で7時間掛けて訴えたにも関わらず「個人の問題だ」と言われておしまいだったと語る。オープニング、これが私の運命、誰にも愛されない、親はなんで私を産んだのかと嘆きつつ雪中を行く彼女を映画は少々のユーモアも交えて見せるが、そちらの問題と違いこちらの問題はそんな遊びを交える余地なんてない、私の意志ではどうすることもできない。そしてそれは、意志で何とかなるかもしれない問題に全く関係ないのだろうか?そんなことはないと私は思う。

コット、はじまりの夏


冒頭、駆けて学校の塀を飛び越えるコット(キャサリン・クリンチ)の小さな後ろ姿があまりに鮮烈。私達はあの後を追うことになる。映画はオープニングからずっと彼女と彼女に向かい合う者をど真ん中に据え続ける。画面中央のコットにアイリン(キャリー・クロウリー)の世話する手が伸びてくるカットも印象的なら、ショーン(アンドリュー・ベネット)がよそで注いでくれたお茶のどアップには家で弁当も飲み物も準備してもらえなかった彼女の心が反映しているようだった。好きな時に好きな物を飲みしたい時におしっこをすることを覚えるというので、先週見た『いつか見た青い空』をふと思い出した。このことが描かれている映画はいい映画だ。

娘を送ってきた父親の「こいつはよく食べる、家をくいつぶす、食べた分だけ働かせてもいい」にアイリンはそういうことはしないと返す。コットは井戸での水汲みを始めじゃがいもの皮剥き、やがては牛の世話などを手伝うようになるが、「働かされている」わけではない。それらはキンセラ夫婦にとって労働というより生活そのものだし、何より一緒にするのだから。合間に髪をとかす場面が何度も入る。アイリンは体をきれいにすること、それによる快感を教えてくれる。家の母親は多忙もあり「下着は毎日替えるように」と言うのが精一杯だったのだ。最初の日にお風呂で体を洗ってもらったのを最後の日には自分でやっている、ああいうのが成長だ。

近所の手伝いに出るようになったアイリンに代わって一緒に過ごすようになったショーンがそっと一つ置いていったお菓子を、アイリンの声にコットは咄嗟にポケットにしまう。「恥ずべきことはないからうちに秘密はない」とアイリンは言うが、恥じゃなくても何かが夫婦の間に横たわっている。コットも感じていたそれが、目の前で溶けていく。最後の日に彼女の中に蘇るシーンの一つ、窓辺の二人は、かつて父の車の後部座席から見た赤いイヤリングの真逆のものだろう。ラストシーンにはショーンの「男はみな同じじゃない」が蘇り、子どもにだってそうだ、子どもだって一緒に生きる人間を選べるはずだ、選べたら…と思わずにいられなかった。