コット、はじまりの夏


冒頭、駆けて学校の塀を飛び越えるコット(キャサリン・クリンチ)の小さな後ろ姿があまりに鮮烈。私達はあの後を追うことになる。映画はオープニングからずっと彼女と彼女に向かい合う者をど真ん中に据え続ける。画面中央のコットにアイリン(キャリー・クロウリー)の世話する手が伸びてくるカットも印象的なら、ショーン(アンドリュー・ベネット)がよそで注いでくれたお茶のどアップには家で弁当も飲み物も準備してもらえなかった彼女の心が反映しているようだった。好きな時に好きな物を飲みしたい時におしっこをすることを覚えるというので、先週見た『いつか見た青い空』をふと思い出した。このことが描かれている映画はいい映画だ。

娘を送ってきた父親の「こいつはよく食べる、家をくいつぶす、食べた分だけ働かせてもいい」にアイリンはそういうことはしないと返す。コットは井戸での水汲みを始めじゃがいもの皮剥き、やがては牛の世話などを手伝うようになるが、「働かされている」わけではない。それらはキンセラ夫婦にとって労働というより生活そのものだし、何より一緒にするのだから。合間に髪をとかす場面が何度も入る。アイリンは体をきれいにすること、それによる快感を教えてくれる。家の母親は多忙もあり「下着は毎日替えるように」と言うのが精一杯だったのだ。最初の日にお風呂で体を洗ってもらったのを最後の日には自分でやっている、ああいうのが成長だ。

近所の手伝いに出るようになったアイリンに代わって一緒に過ごすようになったショーンがそっと一つ置いていったお菓子を、アイリンの声にコットは咄嗟にポケットにしまう。「恥ずべきことはないからうちに秘密はない」とアイリンは言うが、恥じゃなくても何かが夫婦の間に横たわっている。コットも感じていたそれが、目の前で溶けていく。最後の日に彼女の中に蘇るシーンの一つ、窓辺の二人は、かつて父の車の後部座席から見た赤いイヤリングの真逆のものだろう。ラストシーンにはショーンの「男はみな同じじゃない」が蘇り、子どもにだってそうだ、子どもだって一緒に生きる人間を選べるはずだ、選べたら…と思わずにいられなかった。