プライベート・ウォー


最初と最後を締めるメリー・コルヴィン(ロザムンド・パイク、映画の終わりは本人)の言葉は「恐怖を認めると行き着けない、真の恐怖は全てが終わった後に来る」。まず記者の仕事とは「そこへ行く」ことなのだと分かる。米軍がメダカか雀の学校のように記者を並ばせ「行ってよい場所」を指示する後ろでそんなもの聞かずにカメラマンのポール(ジェイミー・ドーナン)に声をかけ、ジムの会員証なんてものまで使って現地に乗り込むくだりが面白い。そして確かに彼女の恐怖は終わった後に来るのだと分かる。

ホムスまであと何年」とメリーの死に向かう作りにしたのはなぜだろう。今振り返っているのだということ、すなわち足場の存在がはっきりとはする。彼女の「個人の物語を書きたい」を返すように映画もメリーの行くところ行くところへ着いてその全てを描く。いかにもよく出来た話とそれを支えるリアルさでもって作られた作品が近年多いことを踏まえても、この映画を見ていると、戦地の場面にこまかなリアルさへのこだわりがあるなら彼女と男達のやりとりも実際にあったことなんだろうかと思ってしまう。「君は美しかった」と(近くにいて欲しいという気持ちからにせよ)言う元夫に対し瞼にキスするトニー(スタンリー・トゥッチ)、なんて描写にふと思う。

川べりに停めてあった自転車で帰ろうとする(彼女もそんな「普通の人」のようなことをするんだと思わされる)メリーに編集長のショーン(トム・ホランダー)は「君には見ることができるが僕らにはできない、君が見てくれるから僕らも見られる、君が信念を失ったらどうなる」と訴える。その線引きはシンプルに煙草で示され、禁煙のレストランとそんなことなど気にする余地のない戦場とが続けて描かれる。作中のメリーは「難しいのは人間性を信じる、人々が関心を抱いてくれると信じること」と言っていたけれど、あちらとこちらのとんでもない距離をてらいなく見せてくる監督はそれを信じて作ったに違いない。ともあれ私達が微力ながら出来るのは関心を持ち続けることだ。