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オープニング、逃げる人々のアニメーションに被る、故郷とは?との問いへのアミンの答えは「そこから逃げなくてもいいところ」。少年時代には「いつも家にいてくれると分かっていた」母親の膝に頭を埋め髪を撫でてもらうのが最高に幸せな時間だったと語る彼が、後にアフガニスタンから逃れる機内では母に髪に触れられびくりと怯える。足元が覚束なくなれば全て以前のようにはいかなくなる。更に数年後には彼と下の兄は老いて体力の亡くなった母を気遣うようになる(「ぼくらのような立場の者は早く大人になる」)。これは故郷を失ったままの一人の人間が、それを再び我が物にするまでの記録である。

ヨナス・ポヘール・ラスムセン監督の、頭の位置を(カメラに合わせて)ずらしてくれとの声にアミンが応え、カチンコが鳴らされるのに映画は始まるが、アニメーションでありながらこんな場面が挿入されるのは何とも奇妙で、そのことが、この作品の一番外側にある語りはこれが映画を作る話だということを教えてくれる。本作は監督とアミンのやりとり、アミンの話してくれた内容、アミンとボーイフレンドが棲家を探す様子をそれぞれ再現したアニメーションとアミンの少年時代当時の実写映像で出来ているが、監督とアミンのパートからは、彼らが手探りながら精一杯どこかへ向かっているといった感じが伝わってくる。その到達する先が、最後にアニメーションから実写映像になる、あの風景、もう逃げなくてもよいところなのである(ここはやはりアリ・フォルマンの映画を彷彿とさせる)。

始まりから過酷なアミンの話が進めば進むほど、「逃げ続けることが人間にどれだけ多大な影響を与えるか」が露わになってくる。モスクワを粗末な舟で発ち漂っている海上ノルウェーの巨大な船に遭遇した際、周囲と異なり全く喜べなかったと彼は言う(結局彼らはエストニア海上警備隊に通報され連れ戻される)。自分の立場が恥ずかしくてと…自身に因るものなど何一つないのに。最後にコペンハーゲンに逃れた際の「密入国業者に全てを支配される」(「警察は最低」「密入国業者はもっと最低」)で冒頭に出てきたノートの意味、生き延びるために自分の人生、アイデンティティを上書きせねばならなかったことがはっきり分かり打ちのめされる。彼はそれゆえ人を信じることができない、心を開くことができない、それは害であると話す。

チェチェンへようこそ ゲイの粛清』では出演者・関係者の身元保護のために(本作ではアニメーションを用いているところ)ディープフェイクの技術が使われていたが、「ゲイがいない」とされている国家からの命がけの逃亡という点でも二作には共通点がある。コペンハーゲンに落ち着くも「家族に嫌がられるから薬を飲んで(同性愛を)治したい」と話す場面が向かい合う職員の笑い声に終わるのには、ところ変わればと言うけれど、それにしても何てことだと大きな息が出た。しかし本作ではアミンが男性にときめく姿が細やかに描かれているのが素晴らしい。日がなテレビを見るしかない部屋から抜け出しマクドナルドがオープンしたモスクワの街で目にする青年達…彼らの容姿についてアミンは監督に何か話したろうか?モスクワからのバンの後部で「大人っぽい」青年と分け合ったロクセットの『ふたりのときめき』には、ああした時のポップミュージックの力を思う。少年時代に姉達が遊んでいたトレーディングカードのスターのウインクが、ゲイクラブのバーテンダーのウインクにようやく着地するのに目頭が熱くなった。

走れ、ウイェ!走れ!


EUフィルムデーズにて観賞、2020年スウェーデン、ヘンリク・シュッフェルト監督作品。歌手のウイェ・ブランデリウスが実際の家族と共演し、パーキンソン病と診断された自身を演じる自伝映画。上映前に流れたメッセージ映像の「諸々の事情で僕はそちらへ行けないけれど、映画が代わりに旅をする」とはよくある言い回しだけど、なぜだかそれを聞きながら、その後映画を見ながら、そうしてると思った。

ウイェがメンバーであるバンドの演奏に被るオープニングタイトル、文字が出る度に映像がストップするのは、後で声を掛けてくるお客の「君は70年代のロックが好きだろう」に倣って言えばアルドリッチの「飛べ!フェニックス」の冒頭というところだけど(って今確認したら65年の映画だった)、ここでは静止の反復が、私には予想のつく不安、ストレスとなって襲い掛かってきた。

先日配信の始まった「オーディナリー・ラブ」(2019年イギリス・アイルランド、リサ・バロス・ディーサ、グレン・レイバーン監督)では乳癌を患った妻(レスリー・マンヴィル)が「変わりたくない」との意思を持ちそのために闘うのが珍しく面白いと思ったものだ。病の後には元に戻らない、変化するんだということを肯定的に描く作品が近年は主流だから。しかし、癌だって以前のままではいられないだろうけれど治療法が無いパーキンソン病の場合はその闘いを選択することもままならず、医師に「一生つきあっていく病気です」と言われたウイェの「いつも」の時間はそこで一旦止まってしまう。

誕生日パーティで新しいピアノを贈られるも病気のことを告げていない皆の前で震える手では弾けず、出て行ってしまうウイェ。それからの地獄巡りが、おそらく舞台の時の演出そのままなんだろうけど秀逸で、以前に「解放が大事なんだろ」と言いながらスタンダップで(この場面でやはり自身の夢遊病を題材にコメディアンのマイク・バービグリアが監督主演している「スリープウォーク・ウィズ・ミー」を思い出す)、ワークショップで、支援センターで、全くそうしてるふうには見えなかった理由が分かり胸がいっぱいになった。あれは他者を攻めることで自身へ向けられるかもしれない攻撃から身を守っていたんだと。私はお医者じゃないから判断は出来ないけれど、そうしているのかもしれない人がいるということに気付かせてくれる映画であった。

不都合な理想の夫婦


英国人のローリー(ジュード・ロウ)の母(アン・リード)いわく「今の女は疑い深い、私は疑ったことなんてなかった、死んだ夫を知り尽くしてたからね」。アメリカンガールのアリソン(キャリー・クーン)は母(ウェンディ・クルーソン)に「難しく考えすぎなのよ、夫に任せておきなさい」と言われそうしてみるが、彼女は夫を知らなかった。ずっと(数分あるいは数時間前から、数日、あるいは数か月、数年前からという広い意味で)考えたあげく自分の方から電話を掛けたことを隠していたのは「企み」と言えるだろう。預かり知らない誰かに物事を任せるとは相手の企みに乗ることなのかと思わせる。

アメリカでは朝夕と子に食事を作り小さな丸いテーブルで一緒に食べていたローリーが、移住したサリーの豪邸ではキッチンに入らず「家に付いている」巨大な長方形のダイニングテーブルの家長の席に座る。この国の団地で生まれ育った彼(何十年ぶりかで実家へ帰る画に「狼たちの処刑台」のマイケル・ケインをふと思い出す)は男は外で稼いで稼いで家族に贅沢させねばと思っている。それが最後には、その机の一か所に皆で固まって、姉と弟が「きっとうまくいくよ」と作った食事に向かう。子ども達がその年まで無事に育ってくれていてよかったことだと思う。

セックスで先にいかれたら自分もいくまで続ける。尻を叩かれれば自分も叩き返す。思うところあってもコミュニケーションが得意な方でなく感情を外に出さないアリソンの魂が、遅れてアメリカからやって来た馬である。彼女の魂そのものであり、彼女の代わりのように激しく音をたてる。そしてそれは埋めても埋め切れなかった。

アリソンに車に乗って行かれて捕まえたタクシーの運転手も農場主同様に顔が見えないが、ローリーは彼の前では、母親に言っていたのと異なり子どもは(「血の繋がり」のある息子だけでなく)二人だと言う。運転手は「あんたのしているのは父親のすることとしては最低限にすぎない」、最後にこちらを向いて「金がないなら降りてくれ」と突きつける。ふと、昔は「タクシーに乗ったら運転手が神様だった」的な映画があったものだと思った。

とても素敵なこと 初恋のフェアリーテール/サマーズ・タウン

特集上映「サム・フリークス Vol.18」にて観賞。岡さんの前説によるとVol.10の「マリアンの友だち」「タイムズ・スクエア」に対応する二作とのことで、言われてみれば確かにそうだ。二人でいることが力になるって話。


▼とても素敵なこと 初恋のフェアリーテール(1996年イギリス、ヘッティ・マクドナルド監督)

オープニング、体育の時間の苛めでリュックをフェンスの外へ放り出され、コーチに怒鳴られながら知るかと帰宅するジェイミー(グレン・ベリー)の姿にママ・キャスの「It's Getting Better」。初期のケン・ローチと組んでいたトニー・ガーネットが製作に加わっているが、集合住宅の並んだ三戸の人々をシットコムか何かの導入のように紹介する手早さはローチの作風などとはまた違っており面白かった。私にはこれは、近隣住民に言わせれば「またあいつら」である彼らこそ健全であり、その健やかさをしんどい世界に少しでも染み渡らせてやろうという話に思われた。ラストシーンのママス&パパス「私の小さな夢」からのエンディングのママ・キャスが歌う、大好きな「Move In a Little Closer Baby」に元気が出た。

家にやって来たステ(スコット・ニール)の、バスルームで見てしまったお尻の割れ目にどきどき…する場面かと思いきやその背中には父や兄による暴力の跡、初めての接触もそれにクリームを塗ってやるというのには、目の前の他者が暴力を受けているという事実とその者への恋心とを一緒に受け止めねばならないことをどう飲み込んでいいか分からなかった。彼と一緒だと幸せだ、体にも触れたい、自分は何者なのかと思い始めたジェイミーは、今ならばドラマ「ハートストッパー」(漫画は未読)のようにインターネットで調べるところ、ゲイ雑誌を万引きするしかない。でも彼は読み込んだそれをステに見せ、更に母サンドラ(リンダ・ヘンリー)とのやりとりで泣いた後日にはゲイバーに行こうと誘いもするのだった。この何という強さ、朗らかさ。

ジェイミーとステが初めて同じ向きで寝る時、母サンドラに買ってもらった雑誌を読んでいたベッドの小ささにびっくりする。体だけ大きくなった、買い替える余裕がない、事情は色々考えられるけども、まだ子どもの二人は学校からは抜け出せるかもしれないが家からは本来抜け出せない。「パブなら出禁」に「追い出せよ」と言い返されても、サンドラには勿論そんなことはできない。あの場面のリビングの外に太陽が明るく眩しく照っていたのが忘れられない。思い返せば映画の始めでも終わりでも、ジェイミーは知らずサンドラの方だけが子に気付いて追っていたじゃないか。


▼サマーズ・タウン(2008年イギリス、シェーン・メドウズ監督)

シェーン・メドウズの「THIS IS ENGLAND」(2006)で移民が悪いんだと洗脳され悲しくもパキ野郎!などと叫んでいたトーマス・ターグースが、ここでは「明日へのチケット」のケン・ローチ編を彷彿とさせる列車で登場し、ポーランドからやって来たマレク(ピョートル・ヨガイラ)と一人ぼっち同士でつるむようになる。「とても素敵なこと」と続けて見ると生活のために必死に働く一人親(母親の方は女であること、父親の方は体力があることでもって仕事を得ているとも言える)と住む少年とそういう親を持たない少年の交流という共通点があり、リビングのソファや子ども部屋のベッドといった場所の持つ意味合いも被っている。子どもや学生の時分は確かにベッドが誰かとの居場所だったなと思い出した。

見ながら随分とんちんかんと言えばとんちんかんなことを考えていた。先月落語会で「不動坊」(好きな噺)の女版を聞いたんだけど、元々はお滝さんの再婚を阻止せんとする長屋の男達のドタバタなのが再婚相手の男の追っ掛け女二人の話になったところ、片方が彼とくっ付いたらもう片方はどうするのという男版には無い突っ込みが追加されており、男達はどういうつもりなのかとふと思ったのだった。しかし本作を見ていてふと、いや違う、二人だから彼らはマリアが追えるんだと気付いた(ぎりぎりで女を利用したホモソーシャルに滑り落ちそうでもあるけれど。女版「不動坊」にあんな改変がなされるのは女のそれが一般的じゃないからなのだ)。共に故郷から出て来たばかりなのに、二人だから、大きな駅を目の前に、あそこから一緒にどこかへ行こうなんて気持ちになる。それこそが(俗語じゃない)「尊い」ものなのだ。

オライの決断


ドイツ映画祭で見逃したものをEUフィルムデーズにて観賞、2019年ドイツ、メフメト・アキフ・ビュユックアタライ監督作品。妻の携帯の留守番電話にイスラム教徒が口にすれば仮離婚となる「タラク」との言葉を勢い余って残してしまったことから、別居によりこれまでと異なる環境に身を置くようになったオライの日々を描く。

前日に見た「ホーホヴァルト村のマリオ」(感想)ではムスリムの人々が主人公に大きな影響を与えるが、本作ではドイツに暮らすトルコ系のムスリム男性、オライが主人公。オーストリアの「ホーホヴァルト」のナディムはパティシエ学校に通うもうんこ野郎、テロ野郎と罵られ仕事に就けなかったと話すが、こちらはオライがおれ達は特にドイツじゃ一人で生きていけない、コミュニティに頼らないでどうするんだと言われるのに終わる。

宗教の知識がないのでその部分しか見えないのかもしれないけれど、私にはこれは男性の問題についての映画で、宗教の諸々も結局は個人に帰すんだということが男性の問題は男性の側の問題なんだということと重ねて語られている、いや表されているように思われた。「ホーホヴァルト」の指導者が代替物だと定義していた酒やセックスにつき、オライはそれらへの欲望が止まらないのを信仰によって抑えられた、救われたと熱弁を振るうが、頭の中にないことは冗談にだって出てこないんだから、売春宿に寄るなよ、カジノへ行くか?などの軽口に、彼の中に衝動や欲望が常に場所を占めていることが分かる。冒頭の妻との場面、スマホを取り返そうとする彼女への元気だな!のヤバさにもそれが伺える(端的に言って、女を傷つける類の男である)。

ハーゲンで家族や仲間を大切に職業訓練を受け就職しようとしている妻に対し、オライはここケルンでもお前ならすぐ仕事に就ける、若くてきれいでしかも女だからと言ってのける。女は楽なものだと思っているんだろう。このあたりは日本の「(カッコつき)弱者男性」の問題と通じるところがあるように思われるも、彼らは日本の日本人のようなマジョリティでは全くなく(パーティで仲間が「そのうちトルコ人が人口の2割を超える、ドイツ初のトルコ人首相になってやる」などとかます)、男性の問題といっても抜け道がない。コミュニティ内部で頻繁に行われるハグだけがひととき彼らの心を満たしているように見えて辛かった。

ホーホヴァルト村のマリオ


EUフィルムデーズにて観賞、2020年オーストリア・ベルギー、エフィ・ローメン監督作品。クィアの若者が生き延びようと必死にもがく物語。オフビートの数滴で(母親がふと、息子が盗んできたある人物のカトリックの喪のベールを被ってみる場面など)見ている私は息を整えることが出来る。監督の趣味がグラムロックで(枕元にダンカン・ジョーンズ月に囚われた男」のポスター)テーマカラーらしき朱色もそう見えてきたんだけど恐らく別の意味がある、何だろう。

オープニング、服を脱ぎ捨て裸であるいはドレスでヒールで踊るマリオ(トーマス・プレン)、その舞台は跳び箱やマットなどから体育館?と思っていたらやはりそう。父親が管理の仕事をしている出身小学校のホールなんて場所が彼の状況と心境を表している。好きなダンスの専門教育は受けられず、赤い液体を出す肉体労働を掛け持ちして家計を支え、「ゲイはいない」とされている村で幼なじみのレンツ(ノア・サーベトラ)…同じくゲイあるいはバイだが彼への恋愛感情はない…への思いを隠して生きている。

マリオはナイトクラブで銃乱射に遭い、一緒だったレンツは殺される。この「突然」感から、ヘイトクライムの標的とされるような人々はいつどこで被害に遭うか分からず常に危険にさらされていることが分かる。村に戻ると生きていてラッキーだったと言われる。母親の「生きていてよかった」はその裏返しである。その理不尽の中で彼は息をしようと、脈を打たせ続けようと、自分を救ってくれるものへと手を伸ばす。それは「レンツを殺したテロ野郎」などと差別を受けているムスリムの人々であった。パティシエ学校で一緒だったナディムを演じる俳優があまりに役にぴったりで素晴らしい、あれは人をいざなう、端的に言ってやばい顔だ。

家業ではない肉体労働につき、親子のどちらかが休むことになればもう片方がシフトに入ってクビにならないようにするというくだりが確かセリーヌ・シアマの「ガールフッド」にもあったけれど(そちらはホテルの清掃、こちらはホテルのレストランの給仕)、この描写は実に息が詰まる。あちらでは子が親の、こちらでは親が子の代わりに入るが、どちらも子どもは逃げてしまう(こちらでは親の方も)。ちなみにこの映画ではマリオの母とマリオの子を産んだ女性が共に女手だけで子を育てており、村に「思うようにならない」ものが蔓延していること、彼もまたそれに加担していることが伝わってくる。

帰らない日曜日


原題のMothering Sundayとはそうか、使用人が実家に帰るための休み、いわば藪入りのことかと見始めると、主人公「ジェーン・フェアチャイルド」(オデッサ・ヤング)は孤児院出身のため(「孤児に凝った名前なんてつけない」)帰る家が無いと分かる。メイド仲間のミリー(パッツィ・フェラン)や雇い主のニヴン夫人(オリヴィア・コールマン)はそれはいいと羨む物言いをするが、そこに込められているのは彼女達の気持ち、真実であり、ジェーンの中に根付かせることは彼女自身にしかできない。あの晩それを我が物にした時が、彼女が作家になった、最も大きな瞬間だったに違いない。

ポール(ジョシュ・オコナー)いわく、書くとは「記憶を呼び起こし心の中に描き、言葉でもって再現する」こと。彼は君ならやれる、自分のためにやるんだと訴える。その言葉を思い出したジェーンはメモの続きに彼のペンで書き付けるのだった、まず、彼が語った昔々の物語から。例えばあの日、窓の外に見えるポールの兄二人は、彼の話を聞いた彼女の筆致が生み出したものであり、ここには誰かの記憶は語られることによって他の誰かのものになり、言葉にすることで更に外へ出ていくことが示されている(だからポールは登場時よりその口元が強調されている)。同時にジェーンはお話作りも実は得意であることが、「もし今、エマがやってきたら」のくだりに表れている。

deviceと無縁なジェーンはMothering Sundayをどう過ごすか。彼女は好きな人と会った。「失うもののない」彼女にとってそれは財産になった。後に恋人となるドナルドとの会話には当初その経験からくるものが多く含まれている。「もっとゆっくり着替えて、男の人が服を着る姿が見たい、それに順番がおかしい」「下だけ真っ裸は変だろ、白人の旦那様は違うのかもしれないけど」。人は過去によって作られることがここに表れている。ドナルドはそうして記憶を貯めこんできた彼女を愛していた。彼の「もっと話す時間があれば」とは最高の言葉の一つだろう。

(以下少々「ネタバレ」しています)

エバ・ユッソン監督の前作「バハールの涙」は、バハールが主役ながらその真実を書かねばと最前線に同行する記者(エマニュエル・ベルコ)の物語でもあった。本作の原作小説は未読だけれど、これもまた、真実を語れない人のためにそれを残す者の話だと言える。ただしこちらでは明確に、それは自身のために。予告でも印象的だったポールの「さよなら」は、世界でただ一人真実を明かすことのできたジェーンへの…彼女一人だけに真実を明かすことができた世界への別れの挨拶であった。彼が天に昇っていく間、彼女が裸でお屋敷を探検し本やペンを取りパイとビールをむさぼるのは、まるで語れない者達の空気を攪拌して身に着けて外に出すための準備のような、儀式のような行為に私には見えた。