a-ha THE MOVIE


映画は控え室で三隅に散らばって過ごす現在のモートン、ポール、マグネの姿に始まり、作中では一切の会話なしにそのままステージへ。それぞれが語る内容は性格の違いなどではなく関係の淀みのようなものを示しており、でもバンド続けてるんだよね?と思いながら見ていくと…という、ちょっとした謎解き感もあり。終わりにアンプラグドのTake On Meにかぶる「a-haを繋いでるのは友情じゃない」からの彼らの言葉に馬鹿だな見ていて気付かなかったと最初から見返したくなった。そうだった、全て音楽の問題ばかりだったと。

a-haは1975年のオスロに始まる。彼らの伝記を手掛けた作家によれば、当時のノルウェーは辺境だった、戦後からまだ脱していなかった、このバンドのことを考える時それを忘れちゃならないと。音楽との出会いにつき、ポールが「現実逃避できた」、モートンが「自分の声で全てを忘れられた」と話すのは国の当時の状況と関係あるのだろうか。ともあれポップスはまだ流通しておらず、国内にないものでもって国外で競争できるはずがないと考えられていたそう。彼らが打って出てTake On Meの「正解」を見つけるのは自分達を世界に合わせて調整しているようだった。

作中初めて三人が口を開くのは、この映画のためのインタビューを母語で受ける場面。過去の映像も母国のメディアの取材が殆どで(「バンドはシングルを出す際、まず英国に拠点を移しますが…」などと聞かれる)、歌詞以外の言葉の、体感的には97パーセント位がノルウェー語。私には一切分からないながら、これが気持ちよかった。動画が行き渡った今ではバンタンが話す韓国語を誰もが聞けるけど、昔は世界進出した非英語圏のミュージシャンの言葉は英語でしか聞けなかったから(勿論、今までだって色んな国で色んなミュージシャンの映画が作られており、a-haは高名だから今回日本でも見られたわけだけども)。ポールとマグネがロンドンに出て半年はまず音楽を聞きまくり(ソフト・セルがルーツにあったと知らなかった!)モートンを呼び寄せ売り込みに掛かるが上手くいかず「壁紙のある部屋には住めなくなった、でも気にならなかった」というような体験談など言葉が効いている。

MTVアンプラグドのリハーサルで一揉めした映像の後に挿入されるマグネの「僕らと仕事した人は皆くたびれ果ててしまう、主導権争いが起こり最後には誰もが手を引いてしまう」。この辺りで彼らは全員「ぼくら」という意識を持っており、それ以外は「外」なのだということが分かる。その後に挿入されるThe Living Daylightsにおけるジョン・バリーとの確執のエピソード…「彼は指揮することに慣れてるからね。僕らははいはいと聞くふりをして全然聞かなかった」。ここが一番面白かった(笑)

ちなみに今年に入って見た音楽ドキュメンタリーの中で私の一番のお気に入りは「The Go-Go's」(2020年アメリカ、アリソン・エルウッド監督)。徹頭徹尾、(この場合は女が)自分で自分を語るという内容に受け取れたからなんだけど、この映画にもそれに通じるものを感じた。ドキュメンタリーはおよそそうだろうと言われそうだけども。

メイド・イン・バングラデシュ


先月セウォル号沈没事故の起きた16日にエッセイ集「目の眩んだ者たちの国家」内のパク・ミンギュの文を改めて読み事故と事件は異なると心に刻んだものだけど、この映画のオープニングに描かれる、実際の出来事を元にした衣料品工場の火災についてもそう、アイロン部門の配線や逃げる女性達で混み合う階段、雇用側にとって働き手などどうでもいい存在だということが表れている。だから死者が出たのだと。そういえば非正規雇用だったため避難訓練に参加していなかった社員が火災で死亡したという事例が最近あったじゃないかと思い出す。

ミシンを踏むのに始まり主人公シム(リキタ・ナンディニ・シム)ら女性達の素足が印象的(シムの家へやってきた皆がベッドにぎゅうぎゅう詰めで座っている時の裸足など楽しい)。私達はシムがその足で歩く姿を、例え夫に引きずられ家へ帰らされるそれであっても、多くはその後ろ姿を、つまり進んだしるしを見続けるわけだけど、物語の最後、あとがなくなった彼女は「動かない」という手に出る。見ながらずっと法が死んでいるのが気になっていたから、それは電気ショックのように響いた。

ダリヤ(ノベラ・ラフマン)の「独り者のつらさ、あんた忘れたの?」とは一人が寂しいというんじゃなく、大家が「夫に捨てられたらどうするの」と言うように、女は一人じゃ生きていけないという意味である。とにかくそれが辛い。シムは13の時に40絡みの男と結婚させられそうになり父の財布を盗んで逃げてきたと生い立ちを語るが、女達は少しでもましな方、ましな方をと道を選び続けて何とか生き延びている。ダリヤだって弁当が「匂う」ような居候から抜け出したく、結婚している身上がほしくて既婚者と付き合っているのである(この事の顛末は、中盤街で流れている歌の「女がヒジャブを取ると邪な心がうずく」云々という歌詞が示唆してもいる。全て女のせい)。

教育を受けず逃げてきたシムは英語に触れる機会がなく、工場の視察の様子を動画に撮り記者のナシマに見せて初めてそのやりとりの内容を知る(彼女達が分からないと思ってあの場で話しているんだろう)。ナシマのオフィスにはシム達の暮らしでは見つけない英語で書かれたポスターや本が溢れており、それがよそから入ってきた、持ってきた、あるいは世界で共有すべき概念であることを示しているが…それが英語で表されるのを「当然」とすべきではないが…彼女に教えられてシムが出向いた集会では、主催者が自分たちの言葉で私達には人権があると唱えさせて自身のものにさせる。

インド映画「きっと、またあえる」(2019)における「素朴な子」「都会風の子」「モデル級の子」(日本語字幕より)の順に女性の肌の色が白くなっていくという場面には衝撃を受けたものだけど(主人公の男性は最後の一番「白い」子と結婚する)、この映画では、「色の白い」女性が出ているLUXの石鹸のCM(実在するものなのかな?)を十代前半にして結婚を控えた娘が見ているという何とも色々批判的な目線があった。テレビの中の映像が人々の実際の暮らしとあまりにかけ離れているというのが第一の意味だとは思うけれども。

私、あなた、彼、彼女/ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地

シャンタル・アケルマン映画祭にて観賞。

▼「私、あなた、彼、彼女」(1974年ベルギー・フランス)はアケルマン演じる若い女性のとある道程を描く一篇。

スクリーンの中の部屋に出現した女の「これが始まりだった」とのナレーションに何が始まったのかと見ていると、寝床やら何やらの配置換えの後、6日目に手紙を書く。いわば生まれたてと思っていた人間にアウトプットできるものがあるのが驚きで、昔ならった普遍文法をふと思い出した(人は生まれながらに手紙というものを書くことができる)。アウトプットした後にはインプットというので砂糖を食べて、裸になって、外の誰かに見られて、自分の裸を見直して、ドアを開けて外に出る。

外へ出て捕まえた運転手の男性の「赤い髪と首が素敵でキスしたい」と思っていたのが手でしごくことに。男の横顔のアップで延々と実況(嘆願)が続く妙、この映画のナレーションは全て主人公に指令を出しているようだ(ナレーションの通りじゃない時もある)。衝撃的につまらない男の話の後、翌朝だかに髭をそり髪を整える彼を面白そうに見る彼女。ここまで無言。

それから「私」で通じる、すなわち過去に関係のあった女の部屋へ。ここで初めて声を出す。飢えを癒すように作ってもらったサンドイッチをむさぼり、ワインを飲み、「明日には帰って」と言われた後(明日には帰って?一瞬意味が分からなかった)ベッドで楽しみ、朝カーテンを開け服も着ず帰る。こうして筋を追うのが感想と同意となる映画。私にはこの内容に86分はかなり長く感じられた、一時間ならよかった。


▼「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(1975年ベルギー・フランス)はデルフィーヌ・セイリグ演じる息子と二人暮らしの主婦のいつもの三日間を描く200分。

家にやって来た男のbonjourと帰り際のお金(待ち受ける手の形がリアル)から何が行われているのか分かるが、それでもこの時点では、内のことを女がやり外のことを男がやると決まっているが女の方には報酬が無いから無作為に抽出された男が無作為に抽出された女に金を渡しているかのように見えた。全編そんなような映画。ジョージア映画祭で見たラナ・ゴゴベリゼ「インタビュアー」(1978年・感想)の主人公にインタビューを受けたらジャンヌはどんな話をするだろうと見ていたのが、「二日目の朝」にコーヒーを立って飲んでいるところでいつまで続くのかと怖くなってきた。

妹が「夫が帰ってきました」と手紙を切り上げるように、彼女たちは家族の帰宅に合わせて物事を進めているものだろうから、「じゃがいも失敗」のくだりのサスペンスは先に帰られてやしないかと相当どきどきした(ジャンヌは案外平気そうだったけど)。しかしそれは、そうそう私も家であんなふうにうろうろしてる、という実感(のための200分)が無ければ得られなかったものだろうかとやはり思う。

ジャンヌは夕食の後に手紙を書くことができる。子どもがある程度成長しており大家族でもないから。家事には自分のためのことと家族(他人)のためのこととの境目が見えないという恐ろしさがあるが、このいわば中途半端さのために余計に、ますます、混然となっている感がある。テーブルの拭き方やコップの取り上げ方などで、単にやる側と決まっているからやっているだけと示されるが、区別がつかなくなっているのが怖い。

アイ・キャン・スピーク


アメリカ合衆国下院121号決議(日本軍従軍慰安婦謝罪要求決議)が採択された2007年の公聴会での証言を元に制作された2017年の作品が、日本でもようやくソフト化・配信で見られるようになったので観賞。「笑えて泣ける」見慣れたスタイルの韓国映画
話は9級公務員のミンジェ(イ・ジェフン)と陳情に日参する通称トッケビ(妖怪)ばあさんのオクプン(ナ・ムニ)の出会いに始まる。ミンジェが二人暮らしの弟ヨンジェ(ソン・ユビン)に言われる「おばあさんは家族もなしに一人で暮らしてきて寂しいんだ、あんなこと言っちゃいけない」に又そんな決めつけてと思っていたのが、それが正しかったのだと分かってくる。自身の店には関係ない悪辣な再開発と戦うのも市場の皆が「一緒に暮らす人だから」。一つにはこれはオクプンに家族が出来るという話である。

「忘れるのは負けだ」と思いつつ、母親にも疎んじられたオクプンは「死ぬまで隠れているつもりだった」が、助け合って生き延びた親友の意志を継いで公聴会で証言することにする。いわく「予感してたから英語の勉強を始めたのかも」。慰安婦被害者の登録申請を(「自尊心から」)していなかったため直前になって日本側から権利がないと却下されるなど、被害者であることの証明を求めてくるやり口の卑劣さに腸が煮えくり返る。
韓国においては、オクプンの身上と決意を知るや全員が迷いなく味方となり精一杯応援する。彼女が孤独に耐えてきたことにつき미안해, 미안해(ごめんね)、それに対して彼女の方も미안해, 미안해と返す。なぜ韓国人同士でこんなに謝り合わなきゃならないのか。アメリカ人もsorryと言うが日本人は謝らない。コメディふうながら名指しでの安倍批判と「でも支持率は上がってるんだって」「ふん!あいつらが謝罪するまで死なないよ」で映画が終わるのは、それが一番のテーマだからだろう。

TOEIC950点のミンジェがその目的を知らずオクプンに勧める勉強法は「書かないで、分からなくても声に出す」。勝負や歌を用い、店で「外国人」と英会話をするよう指示するなど迷惑なやり方もし(そこはこの手の韓国映画らしく全員で盛り上がるという展開だけども)、楽しくなった彼女は「顔を見て話せば通じる、先生がいてくれるから話せる」。両親を亡くし夢を諦めた生い立ちを思わず英語で語る彼に「声を聞けば何を話しているか分かる」。
これらの場面は公聴会でのオクプンの韓国語でのスピーチに繋がっていると言える。親友に代わっての当時の少女皆のための証言は多くの人に正しく伝わるよう幾度も練習した英語で行うが、とあることを切っ掛けに、その前に自身の言葉で堂々と、滔々と話す。実はこの映画で一番心動かされたのは彼女が私たちの言葉、韓国語で証言するこの姿だった。それは「家族」の支えによってなされるのだった。

マイ・ニューヨーク・ダイアリー


話はジョアンナ(マーガレット・クアリー)の親友ジェニーが職場に導入された電子メールの使い方の馬鹿らしさを愚痴るのに始まるが、改めてこれが「インターネット」以前の物語であることを面白く感じた。誰かの書いたものには力があり、それは誰かに届く、届いてしまうということが描かれていたから。1994年にはそれは今ほど「日常」じゃなかったから。ボスのマーガレット(シガニー・ウィーバー)に「判断じゃなく共感してる」と戒められるジョアンナはサリンジャーへのファンレターに心を掴まれ返答したくなり、「静かな感情がある」の彼など自分の傍で語り掛けてくるように、作家に並ぶ存在であるように思うのだった。このあたりの描写、また冒頭一度だけのもしかしたら「真実」との差異の妙がフィリップ・ファラルドーらしく素晴らしい。

恋人ドン(ダグラス・ブース)に「男は女を品定めするものだ」などと言われたばかりのジョアンナにとって、彼が書いた小説「道連れ」(原作のセリフによれば「党員ではない社会党の支持者のこと」)も自分へのメッセージであり、入れる赤は言い返せない言葉である(この小説の扱いは原作と映画とで少々異なる)。元恋人のカールは「怒りにまかせて」手紙を認めたことを後悔するが彼女はそもそもその内容を受け取ってもおらず音信不通を貫くので、彼は彼女に言葉ではなく音楽を聞かせようとする。映画のオープニングは一年間ジョアンナが外に出さずにいた、あるいは自分でも意識していなかった本音だが、彼女は男性達に対しても同様に閉じていたのだ。

共に作家を目指していたジェニーから婚約者について郊外に引っ越すと告白された後、寄る辺のなくなったジョアンナは私はニューヨークの人間なのだとばかりに、ボスの行きつけだが自身は足を踏み入れたことのないウォルドルフ=アストリアへ出向いてチーズケーキをつつく。過剰にアレンジされたムーンリバー、手紙を書く女性、ニューヨーカーを読む男性、自分の居場所ではないようだったけれど、終盤自身の進むべき方向を決め今こそサリンジャーを読んだとき再び訪れると、皆が踊り出す、「ずっと友達」のカールもやってきて自分も踊り出す(ように感じる)。自分を持っていれば、ニューヨークのどこだって自分のものになる。

原作小説「サリンジャーと過ごした日々」はAll of Us Girlsという章に始まる。映画のナレーションにもあったけど、これは無難だと考え出版業界に入るが作家志望だなんておくびにも出すことはない「ニューヨークに何百何千といる女の子」の物語である。その進路は間違いなわけだけど始めは分からず、職場の皆に愛情を覚えたり仕事を面白く感じたりする。そんなこと、そりゃあ、あるだろう。間違ってると気付いたら軌道修正すればいい。ジョアンナが花とスープを手にマーガレットの部屋を訪ねる場面では、自分の進路が見えてきた前者とそれをうっすら察しているであろう後者の心と心が、変な言い方だけど温かい拮抗をしているように見えて、胸がしめつけられた。

キアラへ


イタリア映画祭2022にて観賞、ジョナス・カルピニャーノ脚本監督2021年作。

冒頭キアラ(スワミー・ロートロ)を含む姉妹三人がソファで父親と何とはなしにふざける場面に、「チャンブラにて」(2017)にも少年ピオの、振り返ると多分生涯最後だったであろう、母親に甘える場面があったなと思う(クレジットによると演じているのも同様に実の親子のようだ)。尤もキアラには食い扶持を稼がねばとの心労はなく、走っても走ってもどこへも移動しないジムの帰りの階段を一段抜かしで上る後ろ姿はエネルギーを持て余しているかのようだ。姉のように18ではまだないが、それでも15歳である。世界を見尽くして飲み込む覚悟でもありそうな目をしている。

パーティ帰りのタバコを従兄弟に見つかり一週間以内に父親に言えよと責められる場面、「あんただって吸ってた」「おれは男だけどお前は女だ」「そういうことじゃん」とのやりとりにジェンダーの問題という感じがなく違和感を覚えていたら、程なく父親がマフィアであると(彼女と私に)明かされる。マフィアの子がタバコはだめだなんておかしなものだが要するにそういう世界なのである。大人は悪事をするが(彼らはそれを「生存」と呼ぶ)子どもは知ることも許されない、ただし長じればその組織、共同体の一員となるよう決められている。後に父親が自分の仕事を見せる前に彼女にタバコを勧めるのが分かりやすい小道具の使い方だった。

序盤より見覚えのある顔とキアラとの関わりに分かってはいたけれど、父親を探してチャンブラを訪れる場面で、これが前二作でブルキナファソから来たアイヴァやロマのピオなどに「イタリア人」と呼ばれていた側の話であるということがはっきりする。キアラがロマのグループを襲って鬱憤を晴らすのに、「地中海」(2015)で自分より「下」の人間のいないアイヴァはネズミを傷つけていたものだと思い返す。大人と子どもの狭間にある者が惑いながら自分で道を選択する(結末は授業の単元が示唆している)という点は「チャンブラにて」と同じだが、国のシステムが届いているキアラには教育現場の大人が言うように「とんでもなく幸運」にも悪から抜け出す選択肢がある。それでも彼女は鏡の中に自身のルーツを見るのだった、おそらくこれからも。

パリ13区


終わってみれば瑞々しい二つの恋が交差しながら進んでいく物語であった。一つは一週間続いたセックスに始まり葬儀の日曜日の「愛してる」に至る恋。たまたまセックスした相手をあんなふうに好きになることってほぼ無いと経験から思うから、あの浮かれようが羨ましい。ヘテロの女性が誰か男の人を好きになれるって運がよく幸せなことだ。しかしこのエミリー(ルーシー・チャン)は他人とうまく交流できないのだった。よかれと思ったおふざけは通じず、相手の意図が汲み取れない。バスルームのごめんなさい、ごめんなさいが残る。

もう一つは会話を重ねたあげくに公園の日曜日のキスで息を吹き込んでもらうのに始まる恋。このノラ(ノエミ・メルラン)が被る害は「アンバー・スウィート」(ジェニー・ベス)の「金髪のウィッグをつければ誰でも一緒に見える、奴らの目は節穴だね、ただ人を傷つけたいだけ」がずばり言い得ている。終盤エミリーの祖母が滞在している施設のテレビから流れてくる「(ブリジット)バルドー神話がマスコミによって作られて来た、金髪の愚かな娘だと」に示唆されている、「何々のような女」に対する悪意による苛めである。

オープニングの一幕にクリスティアン・ペッツォルトの「水を抱く女」の一場面を思い出した。テーマになっている土地で仕事のお喋りをしてみせる女。尤もこちらのエミリーは全くもってふざけておりそれが好ましいけれど。カミーユ(マキタ・サンバ)は彼女のこれに笑い、ノラの流暢な不動産の売り込みに惚れ、妹エポニーヌのスタンダップに驚かされと、終始女達のトークを聞く役回りである(そして「感想は要らない」)。彼女達のそれはちょっとした、生きる手立てである。

パリ政治学院を卒業するもコールセンターで働き、更にはクビになり同郷のコミュニティに閉じこもるようになる台湾系のエミリー、復学するも嫌がらせに押し潰され不動産業に戻るノラ、物売る女のどちらも、いや誰の行く末も明るくはなく、輝いているのはただ恋だけ(恋していないエポニーヌだけが希望に満ちているとも言える)。そのことに対する姿勢がどうにも少しぬるいように感じられて、私は「セリーヌ・シアマの映画」「オディアールの映画」の方が鮮烈で好きだなと思った(もう一人の脚本家レア・ミシウスは「ダブル・サスペクツ」のみ見たことがある、これも結構面白かった)。