ビニールハウス


暗くて何も見えない「いい眺め」の前に座るムンジュン(キム・ソヒョン)の姿に、それまでの積み重ねでその心が伝わってきて、「家」がテーマの韓国映画は数あれど男性の家長が主人公のものが殆どで女性のものは本などでは読むけど映像では見ないな、だからいいなと思った。しかしカーセックスの後ろに回り込むはめになったり見えない人物が「元気に見える」と言ったりという微風程度のユーモア含め、描かれている事象、展開、紛れもない韓国映画である。

ムンジュンが「(自傷行為の治療に)病院に行くお金がなくなったので来た」と話すのに、グループセラピーをこのように位置づける映画もめったにないと思う。ファン・ジョンミンが演じるファシリテーターはいい服を着て人の名は覚えず、ただ完治!完治!と連呼する、まともに機能していないシステムを体現する末端の存在である(韓国の新人監督の映画ではこのように、社会を表す要の役をドラマで馴染みのベテランが演じることが多い)。

仕事で介護に訪れている家のテガン(ヤン・ジェソン)を運転席に、認知症のその妻ファオク(シン・ヨンスク)を後部座席に乗せ、目の見えないテガンにハンドルを握らせ駐車場をぐるぐる飛ばすのは何とも奇妙で面白い構図。映画の始め、少年院の息子はムンジュンの方を見ず、最後にある訴えをする時のみ目を合わせてくるが、彼女が彼の、顔を合わせはしない電話越しの声に一線を超えてしまうのは、テガンが「自分を見ない」からかなと考えた。

人を死なせたムンジュンが、当初ビニールハウスの住まいに受け入れていた少女スンナム(アン・ソヨ)を「警察に言えば」と突き放すようになるのに、主人公に権力や金のない『私の少女』(2014年韓国)みたいだとふと思う。あちらにはまた違う問題が描かれているわけだけど、この映画は、庶民を救うシステムがない社会では自分と家族が死なないために「殺してしまえ」という心に陥ってしまうという話である。ここではムンジュンのそれが周囲に広がり回り回って、最後には全てが無くなる。