シック・オブ・マイセルフ


冒頭シグネ(クリスティン・クヤトゥ・ソープ)はことあるごとに「トーマス(エイリック・セザー)にさせられたこと」を思い返している。全く優しくない、私なら一日で別れてしまうような彼氏だけど、話がうまくいくにつれ「役に立つ」ようになってくる。マスク姿でセックスを求めながら大丈夫か聞いてと言うと応じる上に「ぼくに介抱してほしい?」なんて口にしてくれるし、友人男性は自分で咥えての自撮りが難しいと言っていたものだけど彼氏がいれば写真も撮ってくれる。自分に余裕ができれば彼のことを「アーティストなんだ」と自慢するようにもなる。他者は利用するためにあり利用すればするほどより利用できるようになる、金持ちがより金持ちになるように。

「トーマスにさせられたこと」から解放されたシグネは代わりに妄想をたくましくするようになるが、それが現実になることはない。記者の友人の態度の想像と現実の乖離など残酷だった(想像には複数のパターンがあったのに!)。しかしシグネにも得るものがあった。CTスキャンの最中に空っぽだと指摘される夢を見、初めてのグループセラピーではトーマスへの文句を連ね「あなたはここにいない人の話ばかりしている」と言われていたのが、映画の終わりには内容がどうであろうと自分の話をしている。病気によって自分を得たわけだ。

ディナーの席でカップルの男の方ばかりが注目されるという場面は、「普通」、あるいは昔なら女ゆえ才能や努力を無視される、もしくは家事や育児に追われて能力を発揮できないということを訴えるものだったが、この映画にそんな文脈はない。シグネは家事をやるわけでもなく女ゆえに押し付けられる類のルッキズムに囚われているわけでもない。かの国というか地域的な文化なのか作り手の目なのか分からないけれど、老若男女問わず狙う殺人鬼の出てくる映画に感じるのと似たような、いやその延長線上の心地よさがあり楽しく見た。