ひとつの青い花


EUフィルムデーズにて観賞。2021年クロアチアセルビア、ズリンコ・オグレスタ監督作品。工場勤続20年の節目を迎えるミリヤーナが一緒に住む娘、たまに会う母と共に過ごす二日間を描く。

見ている間も見終わった直後も、こんな映画いらないじゃんと思っていた。束ねられた艶々した茶色の髪の後ろ姿に始まりミリヤーナと共に動いていくこの映画は彼女と重なるところが殆ど無いにもかかわらず久々に感じる類の共感を私に呼び起こしたけれど、そこにはとりたてて取り上げるべき要素もないように思われたから。

「私ったら小娘みたい」「私たちはいつまでも小娘だよ」とはミリヤーナと彼女が「避難所」的に立ち寄っているらしき隣人女性とのやりとりだが、これは女はいつまでたっても小娘、という話である。そう振り返ると、そういう映画があったっていいじゃないか、いやあった方がいいと思われてきた。こんな共感は久しぶりだと思ったのは、このことを描いている映画があまりないからなのだ。

このやりとりは元夫との短時間の面会の後になされるが、ここでの小娘とは母に対してである。工場での祝賀会のための服を買ってきているのに聞かれると用意していないと返し、元夫に会うのに口紅くらいと言われるのを無視してエレベーターの中で塗って出向く。ミリヤーナは娘のヴェロニカの言動を「思春期だから」「そういう『時』だから」と飲み込んでいるが、自分だっていつまでもそういう『時』なんである。

面白いのが「家」以外の場所の描写。話は健康診断を受けるために泊まりに来る母親と落ち合って帰宅するのに始まるが(まずミリヤーナの「母親」としての顔を見せてから「娘」の顔を、共にセリフなしで見せるのが上手い)、冷蔵庫の中身の位置も使う洗剤も決まっている、自分が主の家であっても何となく外に出てしまう。先のお隣さんの部屋や建物向かいのカフェ、川の向こうにできたモール…ああいうところに足を向ける時の感じがとてもよく出ていると思った。