子供はわかってあげない


原作も未読なら予告にも遭遇していなかったんだけど、沖田修一の映画は「南極料理人」以降全て劇場で見ているので出かけてきた。振り返ると似ているようで一作毎に違うことを描いてきたんだなと思う。

朔田美波(上白石萌歌)の身になったVR的な映像だからというんじゃなく、なぜか自分のかつての夏を強烈に思い出させる冒頭のプールの場面。出掛けるのに手ぶら…じゃなかった、うまい棒の入ったポリ袋だけ、あるいはでかいリュック、というのが確かに子どもの話である。

通じている間柄には共通言語がやばいくらいあり(やばいというのはそれがしがらみにもなりうるから)、それはある程度の積み重ねによって構築されるものだけど、ここで描かれるのは、一段抜かしで屋上まで駈け上った帰りにはもうそれを手に入れてしまう(そして「告白」直前に頭の中で鳴り響くのはまさにその「帰り」!)、そんな夏の恋なのだった。しかしその奇跡の共通言語となるアニメ、オープニングのあれは長すぎる。長々と見たところで私の言語にはならない。

千葉雄大演じる「オネエ」(自称)を紹介した後のもじくん(細田佳央太)と美波のやりとり「そういうことです」「なるほどです」辺りから覚える違和感。美波の「生き別れ」の父親(豊川悦司)の「君(もじくん)はぼくから美波をさらっていく男だからな」は冗談半分で聞けるとしても、「君(美波)がちゃんと人を好きになれるようお父さんお母さんが育ててくれたことに感謝してる」にはだいぶ引いてしまった。映画と観客との共通言語ということになっているこれらのセリフ、私にはそうじゃなかった。

ただ、高校生の美波やもじくんが教わることも教えることも出来る中途の存在である(美波の水泳教室は学校のコーチ?と母親の指導を基にしている)、すなわち人は教えられて育ち長じて教えるようになるものだと言っているこの映画は、美波の父をそこから外れた存在としているから、彼のセリフはそんなはぐれ者が「普通」の真似をしているのだとも取れる。ちなみに私も教えるより教わる方が好きだし得意なので、省みて自分もやはり「普通」じゃないのかな、などと考えた。