きみはいい子



原作小説は未読。とてもよかった。
オープニング、日課である掃き掃除をする佐々木(喜多道枝)の玄関先での一幕が終わると、カメラが坂の下を捉える。家々と、遠くの観覧車。彼女がちょっと目をやるとこういう風景が見えていたのかと思う。全編に渡って、その場が違う方向から映る度に、違うものが見えてはっとする。そんなの映画じゃ当たり前のことだけど、本作じゃ特に。


教員を辞めた身としては、高良健吾演じる岡野先生のパートは、教習ビデオ「こんなときどうする」(そんなもの無いけど・笑)を見ているようでお腹が痛くなった。教員が直面する様々な問題(すなわち子どもが直面する問題)をこれだけ細やかに描いた映画ってそう無い。
「トイレ」のくだりや教室をちょっと(じゃないけど)離れて戻ってみたら…のくだりは「新採あるある」(どちらもあの騒ぎじゃ学年主任が来るだろう)。傍から見る分には、板書が最悪、給食は自分の机で食べるべきじゃない、皆があんな状態で帰りの挨拶をするべきじゃない、なんて色々思う。6月の時点であの崩壊ぶりはやばい。でも彼が「38人の子の面倒を見てから言ってくださいよ!」とキレる姿には涙がこぼれてしまった。その後の子どもと階段を上るシーン、素晴らしかった。


岡野は冒頭職員室で学年主任から「子どもからしたら(あなたじゃなく私程度の背丈でも)大人は怖いものだ」と言われる。終盤、「宿題」について子ども達と話し合う場面で初めて、背をかがめた彼の目線で子ども達一人一人が映される、この場面の素晴らしいこと。くさい言い方だけど、あの光景って教員にとって最高の「ごほうび」だ。
おそらく出演した子達に実際に「宿題」をやってきてもらい「ドキュメンタリーふう」に撮影したのだろう、映画は突如生々しくなる。物語内における変化ではなく撮り方を変えたことにより「映画作りに協力している子ども達」の素の姿を捉えてしまっているだけなのではないかと見ていたら、不思議なことに、この映画はこの後ずっと、この何とも言えない鮮やかさを保つのだった。なぜそんなことが可能なんだろう?


岡野のパートにも自分の子を虐待してしまう水木(尾野真千子)のパートにも「模範解答」は無く、彼らがたまたま受け取る道しるべには「現実離れ」した感じを受ける。でもこの映画のよさはそういうところじゃなく、もっと細かい描写にある。例えば水木が大宮(池脇千鶴)に淹れてもらった紅茶を前に、いつも娘を気にしていた視線がふと落ち着き、美味しいという言葉が漏れる。完璧じゃない私達はああいう時を生きていると思う。誰かに何かをしてもらうことは大切だと思う。
岡野は先輩の教員から何かを教えてもらうべきなのではと思っていたら、最後に彼は十分、十分先輩から教わる。ラストシーンの後どうなるだろう、そう上手くいくわけない、そもそも相手は留守かもしれない。それでも彼は「扉を叩」いてみる。それが大事。


学校の窓から見える風景は最高ながら「何でもない町」であるロケ地がいい。最後に岡野が汗だくになって走る道のりには、「彼」は毎日この道をどんな思いで行き帰りしてたのかと胸がいっぱいになった。
今見るのにぴったりな「6月」という時節も活かされている。どの場面も、いつか私が見たことのある、それこそ「何でもない光」に満ちている。水木が「溶けていく」時、雨が上がり午後の陽が指し込み始める。岡野が「宿題」について話す時に雨が降っていて、教室と廊下の電気をつけているあの感じも、何とも「学校」めいておりよかった。