北の果ての小さな村で


教員とは大体が政府の、すなわち何らかの政策の下で働くものだが、この映画の、グリーンランドの大地や海を捉えた映像からは、しかしそうであっても十分、私達は自由と強さを持って仕事に向かえるのだという(作り手はそこにはそうは込めていないであろう)メッセージを受け取った。

ものを教える、ましてや言葉を教えるという行為は傲慢であることから逃れられないもので、教える側がそれにいかに抵抗するかが重要なはずだが、アンダースはデンマーク政府からかつての植民地グリーンランドに「自分は変わらず相手を変えよ」、つまり傲慢であれと命を受けて送り出される。しかも教員とはおよそ先輩後輩含め同僚がいることで成り立つ職業だが彼は全くもって一人、誰にも相談できない。先輩からの言葉といえば先の面接時に言われた「彼らの言葉を学ばないで、相手のためにならないから」のみなのだ。

教員経験の無い彼の授業はつまらない(尤も、ああした状況でどんな授業ができようか!)。しーっ!しーっ!を繰り返し、子ども達の「もっと話したい」という欲求を聞く余裕もない(しかし終盤サングラスを交換した際にアサーが「静かに!」「静かに!」と彼の真似をする様子からして、8歳の彼にとってはそれがそうネガティブな響きではないように思われ、それもまた文化の違いかと面白かった)。傲慢にならないためにできる第一のことは教材研究だが、この環境では何から手をつけていいか分からない。

それゆえアンダースはまず、人々と共に過ごす。そりを作ってくれるよう頼み、それに乗って、いや引きずられてみたり、一緒に干物を作ったり。そして彼らの言葉を覚えて時を共に過ごす。そのことが、漁師を呼んで話を聞いたり地図を使ってスケッチしたりという授業に反映されていく。これらこそ自らの文化を知るという意義のある、現地の人間であっても子どもだけでは、あるいは教員でない者にはサポート出来ない、しかしこの映画の冒頭のお上はあまり推奨しない授業であろう。

中盤以降、とある言語政策下に働く者というアンダースの視点を外れて現地の人々の暮らしを観客に伝えることに重点が移るため、締まりの無さを感じたけれど(そのような視点に囚われてはいけないというふうに撮られているわけでもないので)、最終的に彼はある方向へ力強く向かう。アサーに対し、漁師になるには早いうちから始めねば手遅れになると知りそちらの支援をしつつ、デンマーク語の個人授業も行う。すなわち子ども達に最大限の可能性を与えようとする。これは大変な覚悟のいることだ。

本作を見れば分かるように、文化により学校というものの捉え方が異なる。それを考えた時、私だって普段、同じ日本に暮らしているからと学校というものを同じ文化の元にある一つのものと思い込んでいるんじゃないかと反省した。昔と今とでは「学校を休む」ことの意味が異なってきているように、もっと揺れが、幅があるはずなのだ。

映画の終わりの文章と役名のないエンドクレジットから、この映画では「本人」が「本人」を演じていたことが判明するが、それならば冒頭に示されたデンマーク政府の言語政策のあり方も実際に近いのだろうか。ドキュフィクションとはそんなに大きな要素を観客に対して曖昧なままにしてよいものなのだろうか。昨今多い「長期間取材したことが、対象に寄り添っていることが分かるが、いかにも『映画』らしい映画」ならばそんなことは考えないが、この映画のドキュメンタリー要素の取り入れ方はあまりにてらいがなく却って違和感を覚えた。