精神0


タイトルが出た後、時を経た水辺の舟の画が暗くから明るくなっていくのに、こんな演出をするなんて珍しいなと思っていたら、先日見たばかりの新しい「若草物語」を思わせる手法が取られてもいるのだった。「若草物語」と「続若草物語」(にそれぞれ呼応するパート)が「精神」と「精神0」にあたると言えばいいのか、「精神」の撮影時に撮られた映像がここぞという時にモノクロームで挿入される。「若草物語」の感想で過去のパートの方をいわば善きものとするツイートを結構見掛けたけれどそう思わなかったのと同様、この映画の昔も今も私には素晴らしく見えた。

オープニングの診察室において山本先生が患者に話す「周りの人も苦労したろうけどあなたが一番頑張った、こんな世の中なのによく頑張って生きてきた」というのは、タイトル後の講演の内容…右腕を脱臼したら気落ちして食事をする気もなくなり近所の子どもに注意された、自分のところに来る皆は不自由がありながら何てよくやっているんだ、というのと繋がっている。何らかのプロ、あるいはそうでなくても、人間とは全てが同じ根っこから伸びているのだと分かる。序盤のみに差し込まれる町の人々の映像は、「こんな世の中」についての監督の回答にも思われた。

前半には引退する山本先生と患者達のやりとりが長々と記録されており、このくだりがもう面白い。戸惑いと不安を訴える皆に先生は、そうは言っても電話があるし、と気楽に言いもするし、誰でもいつかは別れるんだから、と諭しもする(ここでああ、これは別れについての映画なんだと思う)。先生のところ以外の精神科の病院は怖かった、何がってインターホンやプラスチックの書類入れ、その先生がインターホンを押したり書類にサインをしたりすればぼくは拘束されて連れて行かれるから…なんて告白、書類入れに対するそんな気持ちがあるなんて初めて知った。知れてよかった。後に判明することに若い頃の山本先生は自宅に患者を泊めていたらしいけど、彼はそれならどうだったろう?

映画は診察室における監督の患者への挨拶と許可願いに始まる。タイトルを経て、先生を病院に迎えに来た妻の芳子さんが力が足りず開けられないドアに手を添えた監督は、そのうち二人の家の応接間でせんべいを食べ(あの音!)酒を飲むまでになる。妙な展開だけど、こうしたやり方があの、芳子さんが洗って片付けたままだったのだろうお碗を先生が取り出すというイベントを発生させるわけだ。全てにおいて大変に時間が掛かっているのに、撮影側の誰かの手が空いていたらどうだろう、手伝ってしまうだろうかと考えていたら、その疑問は芳子さんの友人宅での「そのままにしておいてください」で少し解消される(空いていたら手を出してしまう場合もあるのだ、やはり)。

山本家にはもらいもののお菓子やお花があふれ、友人や患者からの電話だって区別なしにかかってくるだろう、周囲の人々の存在がそこかしこにある。でも結局のところ家は二人だけの領域で、その一番奥の奥が、音の消える、扉を開けたまま先生が見守るトイレということになろうか…そんなことを考えていると、芳子さんの長年の友人の口から、先生の母親が彼女を悩ませた言葉について語られ、この家が二人だけのものになったのは近年のことなんだと思い直す。モノクロームの映像の、即答しない芳子さんが頭をよぎり、先生はかばったり何だりしなかったんだろうかと考えてしまった。そうしたいわば疑念は最後に二人が歩いて行く姿に、愛とは更新されるものなんだという答えを得るわけなんだけども。