午後8時の訪問者



公開初日、新宿武蔵野館にて観賞。とても面白かった。変な言い方をするようだけど、見知らぬ少女が訪ねたのは何者だったか、という話にも思われた。主人公ジェニーを演じるアデル・エネルの顔がとてもよく、運転席で、患者に腫瘍が見つからなかったとの電話を受けて緩む表情なんて素晴らしかった。
ダルデンヌ兄弟の前作「サンドラの週末」と同じく、この映画も金曜に始まり、主人公が土日に動き回る(こちらは以降も話が続くけれども)。仕事にまつわる物語は週末が舞台になるものなのかもしれない。


何度も挿入されるジェニーの仕事ぶりに、どんな職業であれ、その根底には常に倫理があるのだと思う。その内容がどうこうというんじゃなく、例えば全ての映画は、あるいは人生は政治的であるというのと同じような意味で(これはアメリカ映画を見ている時によく思うことなんだけど、この映画は違うふうにアプローチしてくる)。
そうはいっても、ちょっとした治療をエサに、つまり医者であることを利用してものを聞き出す「お医者探偵」のようにも見える、そのきわどい感じが楽しい(笑)


印象的なのはしじゅう聞こえる車の音。ひっきりなしに車が走る道路は人が24時間生きているということ、診療所がそれに面しているのは彼らを受け入れる場所だということを表しているように思われた。ジェニーが診療所に寝泊まりするようになるのは、夜中でも車の音から逃れない覚悟、人々を引き受ける覚悟を持ったということだ。物語が終わった後はどうしたろうと気になった。
研修医のジュリアンの住居でも車の音が大きく聞こえたものだけど、彼が一旦諦めたのは、後に語られる理由だけじゃなく、24時間それから離れられない苦しさもあったのではないか。帰ってからも学校のことを思うのがきつくて(そういう理由もあって)教員を辞めた私にはすごい人達の話だった。


ジェニーが糖尿病で歩けない患者を訪問した際の「コーヒーを飲むかい?」「ええ」「カップは棚、コーヒーは鍋にある」がいい。動ける方が少し動けば、気持ちをもっとやりとりできる。ラストの階段のシーンだって通じるところがある。
食べ物といえば、ジェニーが患者宅で焼きたてを味見したワッフルをホイルに包んでもらったり、パネトーネを窓から投げてもらったりという描写も楽しかった。全然違うといえば違うけど、供え物をもらうタイの僧侶みたいだ。


ジェニーが「せめて名前を」と必死に歩き回る姿には、「わたしは、ダニエル・ブレイク」が蘇った(「無縁墓は荒れている」に「午前に行われるのは貧者の葬儀」を思い出しもした)。尤も本作は、人の名前を消そうとする、無きものにしようとする者の存在を、はっきりと描くがストレートに撃ちはしないけれども。この映画が中心に据えているのはまた違うことである。
最後に訪ねてきたある人物の「あなたが写真を見せてくれたのが嬉しかった」は、ジェニーが違う人物に対して言う「亡くなった少女の声が私やあなたの中にある」に通じる。それこそが、私達が捨てちゃいけないことなのだ。