ナチュラルウーマン



愛や思いやりの表明、あるいはそれによる人間関係について「そんなきれいごと」と言う人がおり、私はその言い様を憎む。「きれいごと」は確かにこの世界に存在する。この映画は、その「きれいごと」を抑圧しようとする権力へのレジスタンスである。


「二人」が作中初めて会う時、彼らが出会ったところなのかしばらくぶりに会ったところなのか一瞬分からない映画というものがあって、私は好きなんだけど、これもその一つ。初老の男性オルランド!(フランシスコ・レジェス)があれこれの後に店で歌うマリーナ(ダニエラ・ヴェガ)と目を合わせる時、一瞬戸惑わされる。これは、その時彼女が歌っていたエクトル・ラボーの「昨日の新聞」のように、「昨日の新聞記事の(訃報に載ることになる)男」とはさよならしなきゃならない、例え彼が、最後に歌うヘンデルの「懐かしい木陰」のように素晴らしくても、もういないのだから…という話である(から、アラン・パーソンズ・プロジェクトの「Time」が実はぴったりなんである。この曲いいよねえ!)


マリーナは「性犯罪捜査歴14年、博士号も持っている」女刑事にお金目当てか、体だけの繋がりかと言われ「健全な大人同士の関係」だと答える(この後の「昨晩セックスしたか」への「覚えていない」は、それだけ言えば十分だろ、という反抗である)。この映画では、その「健全な大人同士の関係」は、冒頭の、二人が一緒の、光を駆使して「夢」のように描写される時間にしか存在しない。その皮肉と悲しさよ。病院の、マリーナが逆回転のように後ずさってもたれそうになる壁や這いつくばるトイレの床を照らす照明は、一人の人間について、あるいは人間関係について、ただただ十把一絡げに「白日の下に晒す」(って照明なのに変だけど・笑)のみとでもいうような、とても暴力的な光に思われた。


オルランドの死後、すなわち「木陰」を失った後、マリーナは次から次へと暴力的な態度に晒されるが、面白いのは、怠慢による暴力とでもいうものも執拗に描かれているところ。オルランドの弟ガボ(ルイス・ニェッコ)は彼女をセニョリータと呼び気を遣ってくれるが、果たして彼に「他の家族には連絡しないでくれ」と言う権利があるだろうか。それは「警察を呼べばいい」「葬儀には出るな」などと「アドバイス」する義兄や彼女を被害者と決めつける刑事にも通じる、世の中から「被害」の総数を減らすためなら人の意思なんてどうでもいいという態度である。電車内の痴漢被害を減らすために被害者に電車に乗るなと言っているようなものだ。


この映画では「車から降りない」ことが怠慢のしるしである。身内でさえそうだし、ガボだって、所詮は「奴ら」の車の後部座席から降りようとはしない、仲間なんである(ということと、彼が足を怪我していることとは関係があるのだろうか)。マリーナが葬儀所に向かうのに捕まえたタクシーの先客を一喝して追い出すのは、相手は違うが「車から降りろよ」という怒りにも思われた。車と言えば、昨年は「車の窓から手を出して風を感じる男」が出てくる映画を立て続けに見たものだけど、この彼女は、ただ車内に座り開いた窓から入ってくる風を受けるのみなのだった。