ジュピターズ・ムーン



面白く見たけれど、宗教的な要素が咀嚼できない(理解できないというより「枕の下のお金を全部差し上げて」が、病床であることを差し引いてもやはり「実感」できない)のと、難民をこういうふうに描くのがあまり好みじゃないのと、感傷的に過ぎるのがちょっと…(ってそれは「面白かった」と言えるのか・笑)


映画は不安を煽る音に始まる。鶏と共に運ばれていた難民達が銃撃され散り散りになる中、一人の少年アリアンも撃たれるが死なず、いや撃たれたことにより浮かび上がる。タイトルを挟んでもう一人の男シュテルン(メラーブ・ニニッゼ)が窓辺で目覚め、仕事に出掛ける。あれやこれやの後、二人は並んで車に乗り走り出す。この「定型的」な一幕にわくわくさせられる。男は自分を目覚めさせた、すなわち自分を縛り付けていた携帯電話をいっとき放って逃げ出したようにも見えた。


プールにおいて、誰も見ていない、見ることのできない女の尻を延々と映すのに何なんだと思っていたら、この映画には裸、それも誰にも見られていない(本人が見られていると意識していない)裸がたくさん出てくる。アリアンの影が降りてゆく集合住宅の窓の中、ヌーディストの集う川辺など。それは空撮にも似ていると思った。


私にはちょっと感傷的すぎるとはいえ、「この王子はパーティの主催者だぞ」のシーンにはぐっときた(この場面の切り上げが妙に早いのもいい)。シュテルンが「俺にはお前がいる」と思っていながら別れが近いことも分かっているという切実さゆえだろうか。一方で二人を執拗に追う国境警備隊員ラズロの表情を丁寧に映す理由はよく分からなかった。「難民は怖いものなしだ、底無しの川にでも飛び込む」「(相手は銃を持っていなかったんだろう?に対し)他の難民が撃ってきたかもしれない」と言う彼は、今のハンガリー人を集約した役どころなのだろうか。いや私の身近にも全然ある言い分か。


水陸両用バス(東京にもあるよね、乗ったことある)やジオラマ、水の抜かれたプールなどの「小道具」の数々と使い方が楽しい。終盤の、二人が乗ったシトロエンを追手のラズロ目線で撮ったカーチェイスもよかった。結末はあまりに違うけれど、クロード・ルルーシュの「ランデヴー」を思い出した。