殺人者の記憶法



一番心が高揚したのはキム・ビョンス(ソル・ギョング)とミン・テジュ(キム・ナムギル)の一騎打ちという「クライマックス」。随分「映画映え」する話の中、こんなところで興奮するなんて単純だなあと思いながら見ていたけれど、振り返ってみれば、例えば「キングスマン ゴールデン・サークル」の冒頭いきなり始まるアクションは意味が分からずあまり楽しめなかったっけ、翻って本作のあれこそが私好みの、文脈に文脈を重ねたアクションなんだなと思う。


私にとってこの「クライマックス」を支える文脈とは、この映画において主人公ビョンスが倒さねばならない対象は、記憶が個人のアイデンティティであるならば、それを操作しようとするやつ、「他人の日記を書き足したり一部消去したりするやつ」だということである。あの廃屋は彼の脳内の(作中大きな文字で出る)「メタファー」とも言える。また彼の記憶を引き出そうと日々気遣うビョンマン署長(オ・ダルス)や、記憶を留める手助けをし最後には「信じる」と言ってくれる娘ウンヒは、そういうやつの逆の存在なんである。


冒頭ビョンスについて一通り明かした最後の場面で、一仕事終えて竹林の根元に腰を下ろした彼が何かむさぼり食べている。話が進むうち、彼は食欲があるのにそれを人前で見せたことは無いのではないかと思うようになった。娘のウンヒが買ってきた肉まんを、彼女が居なくなったと見てからがつがつ食べる。その逆が、ビョンマンがビョンスの前で缶ビールを一気に飲み干す姿。更に次の缶に手をつけ、自分の情熱を明かす。その違いは何かと言うと、ビョンスはやはり「生まれながらの人殺し」であり、その欲は人前で表せるものではないということだろう。


出てくる女はことごとく性的に描かれている(尤もビョンスの目からしてである)。それは幾つかの有名映画のように「(男の)自分を誘惑する、滅ぼさなければならない悪」ではなく、生い立ちから推測もできるように、ビョンスの中に心配の種のようなものとして常にある(だから彼の「姉」は「尼」なのである)。しかし、ウンスについて、小説では違和感が無いのかもしれないけれど、車に乗せられるまま、座敷牢に半日とはいえ閉じ込められたままなどの描写には、そりゃあ私だって父親がああならどうするか想像出来ないけれど、唯々諾々が過ぎて、率直に言って虫酸が走った。