アウトレイジ 最終章



上映前にハイローの新作の予告が流れたこともあり思ったんだけど、年齢層の高い役者によるこのシリーズじゃ、いわゆるアクションの代わりが怒号なんだな(啖呵ってのはちょっと違う気がする)。アクションと違ってカット割りや吹き替えが出来ないから却って難しいやね。ついでに車が走るシーンが多いのも足で歩くシーンの代わりなのかもしれないな、などと考えた。


予想していなかったことに、塩見三省を見る映画だった。初登場時から脇に杖、片方の腕でもう片方の体を支え、後に駐車場で一人だけ座ったままの姿や「兄弟」にまつわる場面での表情など最高だった。ガラケーを閉じたかと思いきや電話しときますよとまたぱかっと開けるなんて、ああいうコミカルな見せ方もいい(笑・対して光石研が「普通に」スマホを使っているのは、そりゃあそうだよなって感じ)


宣伝で武がこの映画について「暴力を除いたら一般社会によくある話」と言っていたけれど、暴力がヤクザのヤクザたるゆえんなんだから、それを言われてもなあ、と思いはする。倫理的にどうこうっていうんじゃなく。しかし彼が暴力を用いる人の映画を撮ってきたことを考えると、この発言には謙遜(あるいはその見せかけ)が含まれていると取れなくもない。


松重豊演じる繁田は私には一種の魅惑的な謎、頑張って具体的に言うなら「何に依っているのか全く不明の、突如現れる男」だが、先の武の言を踏まえるとさもありなんである。このシリーズはヤクザを社会の中の存在として描いてはいないから、小日向文世が演じた片岡のように「同じ穴」に居るわけじゃない人間は、そりゃあ何だかよく分からないに決まっている。


一作目には武演じる大友に妻が居た。「ヤクザ」って相手が兄弟か上か下かでそれに応じた喋りをするけれど、女とはどうやって喋るんだろうと思いきや、目下にするみたいに怒鳴ると奥さんが「こわっ!」と言うのが新鮮だった。そういう処遇が面倒だったのか、二作目から「セックス」じゃない女は出てこなくなった。別世界の人間との関わりがあると、「一般社会のメタファー」には邪魔だからかもしれない。


このシリーズは「ドライ」だけども、大友の下に必ず彼を慕い命を投げ出す「その場限りの男」(椎名桔平大森南朋)がいるのが何か、甘いよね。本作なんてそれで始まって終わる。ぎりぎりで嫌いじゃない。