50年後のボクたちは



とてもよかった。ゴミの山の中のホースに向かって疾走する一瞬、最高だった。他にも冒頭にマイクが一人で水の、あるいは架空の銃を撃ったり旅の始めに二人で冷凍ピザを蹴り上げたりと、体を使う感じが映画ならではの素晴らしさ。警官が降りた自転車めがけて走り出すだなんて、間に合わなかったらどうする、と考えたら絶対に出来ないことがやれてしまう。それでいて「考えれば考えるほど、あそこに行けば会えるような気がした」なんて行動もとるんだから面白い。


「ワラキアなんてドイツ語じゃ田舎の代名詞だ」「代名詞なのか?爺ちゃんが住んでる」というマイクとチックのやりとりに、原作を読んだ時には気付かなかったけれど、これは「自分が考えなしに使っている言葉の元を確かめに行く旅」だと思った。風力発電機のふもとで「スターシップ・トゥルーパーズ」について「宇宙のどこかにあんな星があって、二匹の虫だけが、映画に出てくる地球って星のことを信じてる」と話し合うのもその意気に続く気持ちだ(ただし例によって「エクスプロラーズ」を思い出してしまう・笑)。帰って来たマイクが、「夏前なら嬉しかった」タチアナからの手紙にただ「ワラキアにいた」と返すのには涙がこぼれてしまった。


このことは、私の中では、冒頭マイクが「そんな不快な作文は破って捨てろ」と言われて目の前で破ると「本当に破る奴がいるか」と余計に怒られるという場面とも繋がっている。そんな「お約束」、知るかって話だ。マイクは教師のその言葉について「考えたけど今でも意味が分からない」と語る。
教師はマイクがアル中の母親について書いた作文を読んで「不幸に違いない」と決めつけるが、法廷で本当のことを言った息子と手を繋いで帰る、あの二人の関係が不幸なわけがない。大体「あと6ページ」も書くことがあるくらいなんだから!(笑)


車に乗っていると、降りるのがたまらなく寂しくなる。車と一緒に音楽も止まるなら尚更。でも降りた後には必ず続きが、その先がある。この映画にはそのことがよく表れている。原作の方にはその「降りたくなくなる気持ち」(に通じるもの)も語られていたけれど、ここには無かった。アキンの性分、いや、この物語をこう見せるんだと決めた態度のためかな。
「僕は弱虫で退屈な奴なんだ」と吐き捨てるマイクにチックがあることを告白するシーンもさらりと撮られているが、彼自身にとっては大きなことなんだろうと、彼が現れた時の第一声が「ゲイがくそを洗い流してるみたいだ」だったことや、ゲームをしながら女の話を振る時の頬の子供っぽいふくらみと共に思い返した。


マイクの人生に一度登場するだけの大人達の顔もよかった。彼らはマイクが「世界」に出て初めて知った、父親と母親と先生とあと何人か、以外の大人の例なんだよね。最後の方で印象的に撮られていた裁判官のように、まっとうな人もたくさんいる。
原作はマイクがプールで「出来るだけ長く息をとめた」場面で終わる(映画でその後に描かれることはそれより前に描かれる)。母親の行動に、自宅のプールに物を放り込んだって「捨てる」ことにはならないと思うが、自分の中から消えなくても「捨てる」と決めることが大事なんである。そのイベントに笑って付き合う、付き合い合える相手がいるって幸せだ。映画の始め、母親が自転車の後ろからマイクの腰に回した手がぐるっと一周しそうだった、あの細さをここでは思い出した。



エンディングに流れる、ベルリンのバンド・ビートステイクスによるステレオラブ「French Disko」のカバーのMV。
楽しいけど、映画を作る人の手腕ってすごいなあと思うことに、この映像の中の、映画じゃない部分のチックは「チック」に見えないよね(笑)可愛いだけだもん。