スパイダーマン ホームカミング



ピーター・パーカーを演じるトム・ホランドが素晴らしかった。バルチャー(マイケル・キートン)の車の後部座席に乗っている時の顔なんてすごい、彼の表情の変化でもって「物語」が進むんだから。


オープニング、トニー・スターク(ロバート・ダウニーJr.)のビルとバルチャーの工場を捉えたカットは、今世紀になってから数多の映画が見せてくれる数多の国の「高層ビルとそのふもとにあるスラム」の、スラムじゃないにせよ構図をなぞっているようである。バルチャー(=ハゲワシ)の、薄くなった頭髪とフェイクファーの活きていることよ。彼が勘違いから、しかしこともなげに部下を一人殺してしまう描写は、観客が共感を持つところをすんでで「悪役」に仕立てるためだろうか(対してピーターは、どれだけ町に迷惑を掛けようとも死人「だけ」は出さない)。ちなみにダウニーJr.もキートンもマスクの下の顔のカットじゃやたらぴかぴか輝いて見えるのは、レフ板を当てているようなものだからかな?(笑)


冒頭のスタークの「ハグじゃないぞ」や終盤のメイおばさん(マリサ・トメイ)のハイウエストの決まってるお腹での抱っこには、それぞれどんな匂いがするのかな?と思ってしまった(でもって大奮闘の末の当人は「ゴミの匂いがする」と言われちゃうんだから・笑)。私はダウニーJr.が苦手なので、先の場面にああ今、大人の男の匂いがするんだろうなあ!とくらっときたのに自分でもびっくりした。それは性的な「くらっ」ではなく、大人の世界への憧れという感じで、まさにピーターの気持ちになってるわけだ。彼にとってスタークは「ぼくを初めてミスターと呼んだミスター」である。少年は大人に「迎合」したからではなく、別の大人になろうとすることで認められる。


スパイダーマンの映画化シリーズにおける最も重みのあるシーンが、貼り付いたりウェブを撃ってどうこうしたりというんではなく「重いものに耐える、あるいは持ち上げる」シーンだというのは面白い(「スパイダーマン2」と本作のこと)。瓦礫の下のピーターは水面に映った自分とマスクとを融合し、真に「ピーター・パーカー=スパイダーマン」となる。プールに背を向ける時など、彼は要所で何かに映った自身を見る(最後にスタークに贈られたスーツから目をそらすのは、鏡無しで、それを身に付けた自分を思い描いているのだろう)。対してリズが父とボーイフレンドという、古典的な役割の「男二人」の会話を聞きながらスマートフォンの画面で自分の顔をチェックするのは、それと対照的な行為に思われた。新しい「MJ」はそういうことはしまい。