ありがとう、トニ・エルドマン



予告を見る度に何てうざい父親だ!と憤慨してたけど(笑)想像してたのとちょっと違う映画だった。だから本国じゃポスターにも使われているいわば「飛び道具」的なアレが出てくる場面も、予告で慣れてたおかげで却ってこんな場面なのかと面白く見られた。


冒頭、元小学校の音楽教師(そう、これもまた「元教員映画」なのだ)である父親ヴィンフリート(ペーター・シモニスチェク)の暮らす家へ男の子がピアノのレッスンを止める旨を伝えに来るが、その理由は「練習する時間が無いから」。確かに自宅で練習しないんじゃピアノを習う意味が無い。でもそれって事実だけど辛い。変なことを言うようだけど、そういう映画だと思った。また、慌てて畳んだベッドに足の指を挟んだイネス(サンドラ・フラー)が彼に「骨折はしてない」と言われるのには、「モン・ロワ」を思い出した。あの話では骨を折った主人公がリハビリをするはめになるが、骨折まではしていないこちらの主人公は…強制的に治療されるしかない。


オープニングに父親がドアを開けてすることと、終盤に娘がやはりドアを開けてすることは「同じ」である。それまでどこか散り散りだった劇場の場内の空気が、あのパーティで一気に緩んだように感じられたのは面白かった。それってまさに、作中のイネスがしてることによる効果だから。この映画では「装う」こと、身支度をすることが大きな意味を持っているが、彼女が作中最も解放されている時に身に着けているのが喪服(として着ている服)で、しかもポケットに手を突っ込んでるというのも面白く思った。


コンサルタント会社で働くイネスの「お得意様」夫婦は、明らかにギブ&テイクで成り立っている。同席した男達は「嫁がいないうちに夜を楽しもう」。全く嫌になるところだけど、彼女はそういう顔は(観客の私にも)見せない。それは麻痺しているのだ、父親に向かって「楽しいよ、ヨーロッパで一番大きなモールだから」と言う時の口調で分かる(だって全然楽しそうじゃない!笑)。「男女の仲」の同僚には「女子会って何話すの?(略)化粧品のこと?」、仕事上の約束を反故にしまくる上司には「フェミニストの君には辛いだろうが、相手を女として魅了してほしいんだ」(イネスは「あなたの元で働いてる私がフェミニストですって?」と返す)、出向いてみると根を下ろしている違う問題に衝撃を受ける。あそこでうんこするの、どんな気分だろうと考えた。


終盤ヴィンフリートは自分で出来ないちょっとしたことをホテルのフロント係の女性にしてもらう。相手は一言「大丈夫ですか?」。その位のことなら誰でも出来るから、皆がそんな時を与え合って生きていければいいけれど、そうもいかない。そのうち「信じていた場所が居心地悪くなっ」てしまったら、それよりもっと、強い何かが必要だ。ニュースで読んだ、ジャック・ニコルソンによるハリウッドリメイクは、私は見たくない。イネスが女として嫌な目に遭っているのに対し、父親はジェンダーから全くもって離れた存在で、それがはがゆくも救いでもあるわけだから。ニコルソンにはそんな役、無理でしょう(それを演じてこそ役者だとは言え)


映画における女の座り方というのはとても気になるものだけど、この映画のイネスの座ってる様はとてもよかった。ホテルでの同僚との楽しい一幕(彼が服の上から胸を掴んでるのがやけにリアル・笑)、クラブじゃそりゃあ、ああ座るよね!と思う。そういう所々が妙に「リアル」で、クラブに向かう車の中で友人が口紅を塗るの、ああいうふうに塗るよね!とか、きついスカートは上げなきゃしゃがみ辛いとか、ああいう描写を見ると信頼できると思う。