百日告別



「同じ時に誰かを失った者達を乗せたバスが、下りながらも光に包まれて進んでゆく」ラストシーン。まずは時間を旅する物語である。この映画を見ていると、まるでツアー旅行のような仏教の供養のスケジュールは、大昔からの、人々の、誰かの死を受け入れるまでの経過を集計して作られたんじゃないかと思ってしまう。
シンミンカリーナ・ラム)が父親を訪ねる場面ではふと、彼女は(「何事」もなければ)またこの旅をするのだ、それには今の経験が影響を及ぼすことだろう、そして私もこれに似た旅をこれから何度かするだろう、と思ったものだ。


ただし「同じ時に誰かを失った者達」は、その「誰か」が同じであろうと様々である。事故の後、目が覚めた時に辛い言葉を聞かねばならなかったユーウェイ(シー・チンハン)と、愛する者に触れることを彼の母親に拒まれたシンミンとは、スタート地点からして、いわばはみ出しものである。そういう見方に気付いてから面白くなった。
映画だからより分かりやすく、二人はそれぞれ「家族」になって間もないか、これからなるところであり(結婚前の彼女はお参りするのに選択肢もなくホテルに泊まらなければならず、葬儀の際に親族として前にも並べない)、しかし日々を共にしていたのだということが強調される。愛の巣とはよく言ったもので、丁寧に撮られているそれぞれの生活の場が心に残る。


「歩く速さは皆違う」から、ツアーに着いて行けない二人は、言うなれば途中に一人で道をそれ、速度を補おうとする(とは妙な言い方だけども)。愛する者の直筆のノートを手に、シンミンは沖縄のあれこれを食べ歩く新婚旅行へ、ユーウェイはピアノ教室の月謝を生徒達に返しに出発する。
シンミンが訪ねる沖縄は、低い石の塀や高い見晴台が魅力的で、まさに自分の足で歩く旅といった感じで撮られている。ちなみに旅行会社に勤めるユーウェイのデスクの脇に立山黒部アルペンルートのポスターが貼ってあるのが、沖縄と真逆のものをイメージさせ面白い。一部見える「来られ」とは富山の方言で「いらっしゃいよ」とでもいうような意味(私は両親が富山出身なので)


それでもやはり心は追い付かず、二人はおずおずと死の方へも歩みを進める。しかし最終的には、愛する者が遺した足跡が、彼らを生きる道へと押し戻す。シンミンが時を越えてあるものを受け取る時、いやーずるいよ!と思いつつ、時間ものならではのロマンに泣いた。