偽りなき者



映画は「11月」に始まる。ヴァン・モリソンの曲をBGMに湖でじゃれあう、全裸あるいは下着姿の中年男たち。彼らの一人を助けるために飛び込むルーカス(マッツ・ミケルセン)のみ、服を脱がない。なんでだよと不満を感じたものだけど(笑)このことは、彼が男でなく女の集団に属していること、そもそも村のコミュニティから少々ずれていること、やがて「異質」なものとして排除される(そういう結果になってしまう)ことに繋がっているのだった。「12月」が来た時には、しんしんと雪が降るという気候だけじゃない、全てが変わってしまっている。


離婚と失業を経たルーカスは、幼稚園に職を得たばかり(元妻いわく「42の男が幼稚園の先生だなんて、息子も恥ずかしがるわ」)。作中、彼はまず幼稚園児のクララから、その父親であり自身の親友のテオから、同僚のナディアから、次々とキスを受ける。ナディアとのセックスの翌朝、並んで歩くのに胸をぴんと張っている様子が可笑しい。
予告編からは「真相」が分からない作りなのかなと思ってたけど、本作に「そういう意図」はなく、クララが園長先生に示唆する、ルーカスに「いたずら」された旨は「嘘」だと分かるようになっている。何も知らない彼の日常を観ているこちらは気が気じゃない。冒頭から描写がとんとん進んでいたのが、園長が専門家?を呼びクララの話を聞く場面に至り、ほぼ「リアルタイム」進行になるのが怖い。直前に外を呆然とさまようルーカスの姿があるため、今この瞬間、どうしてるんだろうと気が揉める。


こういう映画を観るとまず、監督(作り手)は子どもにどう「演技指導」したのか、すなわち子どもとどうやって映画を作り上げたのか、と考えてしまう(非難しているのではなく興味があるって意味)。
クララが、ルーカスに「すげなく」された時、園長に質問されている時、また母親に嘘を付いたことを告白するも「忘れようとしているのよ、話してくれて偉かったわ」と言われた時、その顔が随分じっくり撮られている。大人たちと均等に扱われている。見ているうち、子どもの顔に表れる何かは、子どもじゃない者のそれより「分からない」と思ってるけど、別に子どもじゃなくたって「分からない」じゃないか、と気付く。
「子役」と言えば、ルーカスの息子マルクス役の少年も素晴らしかった。久々に会った父親と抱き合う時の瞳にぐっと心をつかまれる。その後の泣き顔、名付け親の来訪にほっとした顔もいい。


更には、自分が村人ならどうするだろう、いや「どうなる」だろう、と考えずにはおれない。どう判断するか、あるいは判断しない、できないままでいるか、意思でどうなるものでもない。法の判断に従うってのも馬鹿げてるし。加えてその上でどうするか。彼が「有罪」であると決めたところで、冷たく接しても「被害者」には益の無いことだし。
ルーカスが巻き込まれた件について(本人の口から)聞いて笑い飛ばすのは、彼にアプローチしてきたナディアだけ。「男女の仲」であることは、その態度に影響しているだろうか?ともあれ「学歴に見合う仕事が無くて」とこぼす彼女は村の人間ではない。他は皆「内側」の人間、中でも園長が呼び寄せる「専門家」が彼女の古い知り合いだというのが気になった。身内に判断させるなんて。


観ながらふと、今や実現不可能だろうけど、マット・ディモンとベン・アフレックが主役とその親友を演ってるところを想像してしまった。クレジットのトップがルーカスとテオである通り、本作の芯には二人の友情がある。
ルーカスは最初から最後まで、園長に対しても、更には当のクララの親であるテオの前でも、明確な否定の言葉を口にしない。テオの方も、娘の言葉を聞いてルーカスを訪ねる際、そのことには触れないし、自分の考えを口にしない。もっとはっきり言ってやれよ!と思っちゃうんだけど(笑)そこに彼らの生き方というか信条が表れてるのだろうか。
テオについては、「確信」しているその妻と違い、何を考えているのか「分からず」戸惑った。しかし「分からない」のが当たり前なのかもしれない、彼自身だって翻弄されてたのだから。