落語の仮面祭り in 下北沢演劇祭



三遊亭白鳥「三遊亭花誕生」
三遊亭白鳥「嵐の初天神
 (中入)
三遊亭白鳥「トキ蕎麦危機一髪」
 (2/4・本多劇場

「独演会」でも開口一番や二つ目さんが配される場合が多いのに、枕すら無しで連作を通し。いそいそ出向いておきながら、また一話からか!とも思ってたんだけど、例によって「進化」していたからというだけじゃなく、楽しかった。生きててよかった(笑)喋り方が少し違うように聞こえたのは気のせいかな?何度も出てくる「次の日」のイントネーションとか、ああだったっけ。


いつもよりゆっくりと高座に上るなり、「『ガラスの仮面』を読んだことがない人はいますか」「もしかして、三遊亭白鳥を初めて見る人はいますか」と挙手を募ると前者ばかりか後者も結構居たので、「何しに来たんですか!」という始まり。「はなちゃーん!」と手を降りながら友達がやってくるという全然「落語」じゃない幕開けと、続けての新たなくすぐり?「心の壁」に、他人の反応を気にしない私でさえ少し心配してしまった(笑)
自分でも突っ込みを入れてたけど、一話での花の父の典型的な「昭和のダメ親父」の描写の揺れに、今の白鳥さんを見た(笑)ここで「替り目」が登場するという伏線が以前よりもこなれたものになっていたのを始め、連作の中では当然ながら最も「古い」噺なのに、随分アップデートされていた。


「落語の仮面」を聞く度に書いているけれど、この噺の肝は、花ちゃんや月影師匠が持っている、またこの世界でもって求められているのが、落語を「演る」のではなく「作る」才能だということである。その次に重要とされるのが「客を喜ばせること」。二話で師匠が先輩達の高座を見るよう命じるのは、「芸を盗む」ためではなく何故受けるのか、あるいは何故受けないのかを考えるため。
加えて冒頭で花が披露する「狸さつ」や「インドの茶碗」が「古典落語と骨子は同じながら別の話」というのも考えたら面白い。それは白鳥さんの「マキシム・ド・呑兵衛」が「青菜」と「同じような種類の笑い話」であるというのと似ており、日常の笑いが古典落語の演目でもって説明できることがままあることから分かるように、年月を経て残っているネタは面白さの幾種類もの枠のようなものなのだ。


私は「落語」を「女」が「演る」ことには違和感を覚えない(結局のところ誰かが喋るのを聞いてるのに変わりない)から、白鳥さんが言うように「落語」が「男のもの」であるならそれは「内容」ゆえである。でもそれを「女の、というか皆のもの」にするのに、一から作らなきゃならないとは思わない(ちなみに初めて聞いた「女の演る落語」は歌る多さんの「(三姉妹版)片棒」で、それは「普通に」面白かった)。
白鳥さんの活動は、例えば「落語は『都会』の人のものじゃない」という弱者視点の考え方が、周囲の女性に目を向けた時に適用されたものだと思う。「それぞれにそれぞれのフェミニズムがある」と理解していても私がそこにフェミニズムを感じないのは、私の知っている男性の多くが、何かを「やる」ことをそうだと思っているけれど、私は「やらない」ことこそそうだと思っているというすれ違いに近い(私は「落語」のミソジニーを、白鳥さんの言う「妾の出てくる噺」ではなく多くの噺家さんのちょっとした枕やくすぐりの内容に感じる)。尤も白鳥さんの「やる」はそれを遥かに越えた「活動」だから別の話だとも言えるし、大袈裟だけど、私はその生き方が好きなわけだけども。