鈴本演芸場7月中席夜の部



柳家緑太「やかん」
鏡味仙三郎社中(太神楽曲芸)
林家彦いち「長島の満月」
春風亭百栄「誘拐家族」
ペペ桜井(漫談)
柳家三三「碁泥」
 (中入)
伊藤夢葉(奇術)
春風亭一之輔「掘の内」
ホンキートンク(漫才)
三遊亭白鳥「落語の仮面 第一話」
 (7/19・鈴本演芸場


白鳥さんの「落語の仮面」、素晴らしかった!聴き終って、この気持ちを伝えたい、お札のレイを掛けるとかじゃなく、どこかでばったり会ってよかったですと言えたらなあと気味悪いことを考えてしまった。


美内すずえの「ガラスの仮面」を下敷きとしているだけじゃない、どころか、この噺は現在の白鳥さんそのもの。作中「子別れ」や「引っ越しの夢」を「こんな男目線の噺」と「ギャグ」として茶化すけど、これは彼が常々言っていることであり、だから女の落語家のために新作を書いて演らせているわけ。
それこそ白鳥さんと同じように「落語」を知らない私は女が男を演ろうと全然構わない、そもそも落語を含む世の中が男目線だからこそ女は男に「共感」することに慣れているものだけど、「自分」の噺しか作れないし演れない白鳥さんには、それが「分からない」(なぜ女が男の噺をやれるのか、またなぜ聞き手がそれを聞けるのか疑問を抱く)のではないか?とふと思った。それって素晴らしい。
(尤も白鳥さんの作る「女目線の噺」につまらないものもあるのは、結局のところ「自分」の枠から出られないからではないかとも思う)


北島マヤが演技の才能なら三遊亭花が持っているのは落語の才能、白鳥さんに掛かれば勿論それは「物語を生み出す」才能。「落語を知らない」が、いやそれゆえに「色々な話を作る」、高座を走りまくる花は白鳥さんそのもの。ただし無自覚にやっているところが「ヒロイン」たる所以かな。
ガラスの仮面」で言う「劇中劇」、すなわち「高座中高座」?については、先日の「この落語家を聴け!」でのインタビューの内容を思い出した。「(昔に比べて)面白さを伝えるのが上手くなった」と言っていたけど、そのせいか、あのような芸でも(笑)全然違和感を覚えない。
それにしても一之輔が「堀の内」であれだけ笑いを取った後で(聞いてたか知らないけど)「日芸落研出身者なんて古典落語に現代的なギャグを入れただけの小手先の芸ばかり」なんてギャグとしてもよく言えるよね、あれ嬉しかった(笑)


第一話の最後の花と月影先生のやりとり、「落語の場合は一つの仮面をかぶれば周囲がそれに合わせてくれる」って、タイトルのこじつけじゃなくほんとにそう考えてるんだろうか?面白いなと思った。