マダム・フローレンス! 夢みるふたり



フローレンス・フォスター・ジェンキンスを題材にした映画が二作、日本で同じ年に公開されるとなれば、どうしたって比べてしまう。年頭の「偉大なるマルグリット」(感想)があまりに素晴らしかったものだから、こちらを見ている間中、頭をよぎりまくってしまい困った(笑)向こうの方が断然好きだけど、実話にある程度基づいているらしきこちらも面白かった。


オープニングはフローレンスの設立した「ヴェルディ・クラブ」で、「前座」として「ハムレット」の一幕を演じているシンクレア・ベイフィールド(ヒュー・グラント/以降見ながらずっと、彼の声に魅了される)。彼の紹介により、作曲家フォスターの「霊感の天使」としてマダム・フローレンス(メリル・ストリープ)が空から降りてくる。更に着替えて「ワルキューレの騎行」を披露し、メンバーからの贈り物の時計を受け取り、「音楽はこれまでも今も私の全て」「兵隊さん達が今も戦っています、私達はニューヨークの音楽の火を絶やさないようにしなければ」と語る(ここからメリルにも魅了される)。
ここまでの一幕には奇妙な「完結」感を覚える。ここにはある意味「全て」がある。これはシンクレアが夢だと気付かせないようにしている、フローレンスの夢といってもいい。その晩彼女が「今日が終わってほしくない」と口にするのも分かる。


フローレンスのためのピアニストのオーディションが行われる(候補者があんなにも集まるのは、先に彼女が言っていた通り音楽家の仕事が減ってきているからだろうか?)。「うるさくなければ何でも」とのリクエストにコズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)の弾くサン・サーンスの「白鳥」に、ライバルの仲間達はBullshit!、シンクレアはマダムの顔色を伺うが、彼女はうっとりし「理想の伴奏者」だと褒める。私はこの場面が好きだ。コズメとフローレンスの心は互いに対しまだ開かれていないが、三人がただ音楽で繋がっているひと時を感じる。
次第にマダムの「これまで」が分かってくるにつれ、ブリーフケースに遺言書を持ち歩いている彼女は、自分の人生にはこんな、言うなれば優しい音楽が、いや「伴奏」がほしいのだ、と思われてくる。


職を得たコズメがエレベーターを降りホテルを出て「ニューヨークの街」に放たれたところで、役者がほぼ揃い、話が始まる。ここまで歌っていなかったフローレンスが、ようやく見ている私と彼の前で歌声を披露する。
ここから少々戸惑わされる。それはヒュー演じるシンクレアのせいだ。彼は誰にも何も語っていないように見える。振り返ればその姿は、「マダムへの愛のために全てをやりすごしている」ようだ。「偉大なるマルグリット」が、世界の歪みをマルグリットが受け止めてあのような声を出していた物語なら、こちらは愛する人の夢が覚めないようにシンクレアが全てを飲み込んでいる話だった。才能も故郷も家も持たない彼のあのダンス、涙があふれてしまった(ヒューさまにそんな意図は全くなさそうなのが憎らしい・笑)


カーネギー・ホールでのコンサート」とはすなわち、シンクレアに夢を見せられていたフローレンスが、メイドいわく「暴走して」、「これは本当に夢じゃないわよね?」と、目が覚めやしないか確認したくなったということに他ならない(だから後にシンクレアがキャサリンレベッカ・ファーガソン)に言う「僕のせいでこんなことに」とは、くだらないセリフじゃない)。確かにこれは映画の「クライマックス」になり得る。
「偉大なるマルグリット」も本作も、彼女が時の人になることで他の「世界」の人々と触れ合う(はめになる)のが面白い(いわば「当然」の展開だが、「マルグリット」の場合は更に深く掘り下げられている)。遂にコンサートが開かれた時、すなわち眠っているマダムを考え無しに起こそうとする者に囲まれた時(中にはニューヨーク・ポスト紙の記者のように誠実さからそうする者もいる)、突如アグネス(ニナ・アリアンダ)が味方になってくれるのは、25年のシンクレアの頑張りに対する奇跡のようなものだと受け取った。


ホテルの廊下で出会った昨日の客とニューヨーク・ポスト紙を切っ掛けに病に倒れたフローレンスのために、コズメは再び「白鳥」を弾く。「皆が嘲笑してたのね」「僕は笑わない、決して」。やがて二人は夢を見始める。
「あなたのため以外には歌わない」と歌って世界の喝采を浴びるなんて、何とも奇妙な夢だ。フローレンスは「真実」を知ったが、自分には愛があったと分かって死んだのだろうか(ということは、彼女の人生は「夢」が覚めて終わったとも言える)。中盤のシンクレアの「愛には色々な形がある」とは、その場では勿論、マダムが彼の「生活」を了承していることを指しているんだろうけど、振り返ると、フローレンスの彼に対する「愛」とはどんな形をしていたのかと考えてしまう。