偉大なるマルグリット



とても面白かった。野暮と言われようと、私は一分一秒に意味が明らかに見てとれ、それらが一つの物語を紡いでいく、こういう映画が好き。でもってこの映画は、とても緻密な作りで「分かりやす」いのに、私の解釈は全て間違いで感想は頓珍漢かもしれない、いやこれでいいに違いない、どちらもあり得るんじゃないかと思わせてくれる稀有な作品だ。
振り返ると、世の「きしみ」がマルグリット(カトリーヌ・フロ)に寄せられ、それを彼女の偉大さが受け止め、音楽への愛と共鳴して、あのような声として発露していた、とでもいうふうに感じられる。ボーモン(シルヴァン・デュエード、瑞々しいマーク・ラファロといった感じの美青年)の「孤児を代弁するかのような」という新聞評は核心を突いている。ラストシーンで「あらゆる階層の人々」がマルグリットを取り囲んでいるのも印象的だ。


オープニングからぐいと引き込まれる。「偉大なるマルグリット(原題「Marguerite」)」の物語は、塀を乗り越えてきた男と駅から歩いてきた女、二人の庶民が出会うのに始まる。ボーモンが、アゼル(クリスタ・テレ)が泥の付いた靴をマルグリットのに履き替えているのを見て「綺麗な靴だ」とは、二人の間の当初の齟齬と同時に、彼がマルグリットに惹かれる(いわく「情がわく」)ことを暗示しているようだ。
マルグリットが登場する前に、私達はその部屋を窺い見る。孔雀を追ったボーモンが忍び込む主の居ない私室、その晩ひとりきりの寝室を出て私室のソファで横たわるマルグリットの姿、この場面の最後の、フロの顔が蓄音機に飲み込まれるように隠される画の異様さ。このあたりからラストシーンまでずっと、体の表面近くまで涙があふれてきて乾かないといった感じだった。


第二幕のタイトルは「新しき世界」だが、始めにボーモンと友人のキリムがデュモン男爵邸の塀を乗り越えて侵入するのは、この映画が文化との出会いを描いていることも表している。作中ではダンスパーティーや影絵の上映されているアヘン窟など、この「侵入」が無ければマルグリットは知らなかったであろう「狂騒の20年代」のパリの文化が描かれる。
面白いのは、キリムの企画によるダダイスムのパーティに呼ばれたマルグリットが「ラ・マルセイエーズ」を歌い見世物にされるも、「本当の観客」と接することに目覚め、「本当のリサイタル」へと更なる飛躍をせんとするところ。「スキャンダル」を理由に彼女を追放しようとするクラブの面々の前で「兵士達への敬意を込めて歌った」と断言する姿も素晴らしい。「フランス国歌は自由についての歌よ、それを歌って何が悪いの」との言葉に思わず笑ってしまう夫の顔が挿入されることにより(この映画はこういうところが実に泥臭いんだけど)夫婦には通じるところもあると分かる。


冒頭では、予告から連想される、落語「寝床」にも共通する「金持ちの下手の横好きあるある」(そんなジャンルは無いか)要素に笑わせられるも(車が故障したと言い訳する夫やテーブルの下に隠れる子ども達、後者には「声は上の方を抜ける」という「寝床」のくだりを思い出す・笑)そこからの映画ならではの繊細かつダイナミックな語り口が凄い。
ちなみにマルグリットと「寝床」の旦那の一番の、というかまず示される大きな違いは、「私と同じ目線で音楽を愛している人がいないから」と教師をつけていないところ。「道化師」の舞台における歌手ペッジーニ(ミシェル・フォー)を見つめるフロの演技は、ベタながら目が離せない。ちなみにこのくだりからも、ペッジーニを気に入るはずとマルグリットを呼び寄せるボーマンには見る目が備わっていると分かる。


マルグリットを崇拝する執事のマデルボスの描写もひどく面白い。何と言っても映画は彼の「目」で終わるのだ。冒頭からマルグリットのことをカメラの中から、あるいはバックミラー越しにと直接は見ず、リサイタルの夢を抱く彼女に「マダムの観客達」の絵を差し出す。この場面は一見「感動的」だが、振り返ると怖くもある。彼はボーマンやキリムのようにはマルグリットの声に「何か」を見出せないが、彼女を材料に自分なりの芸術を作り上げている。最後の展開には、マルグリットが違う場所へ行ってしまうのを阻止しようとしたのだろうかとも考えた。
またマデルボスの「私も随分遠回りをしてきました」というセリフからは、マルグリットも「このよう」になるまで長い道のりを歩んできたことが分かる。彼女の道は、「つまらない晩餐会に出席してきた」時からずっと続いているのだ。


「interview」の中での「デュモン男爵夫人じゃなくマルグリットと呼んで、私は皆のマルグリット」という言葉は、他の部分が全て「幻想」であることを踏まえると、どう捉えていいのか分からない。でも私は、彼女は単に「夫を振り向かせるために」(自分の声域ではない声域の声=孔雀の声を出してまで!)歌っていたわけではない、愛があっても愛だけに生きるわけじゃない、そういう話だと受け止めた。
こうした奥行、複雑さ、何といったらいいのか…「曖昧であるという豊かさ」が映画全篇から感じられる。例えばペッジーニはマルグリットについて「夫が抱いてやれば歌わなくなる」なんて一面的な「つまらない」ことを言うけれど、それは彼の一部を表しているだけであって彼が「つまらない」人間だというわけではない、とこの映画は語る。誰かと誰かの関係も、名付けられた一本の線上のどこかにあるわけではないと語る。そういうところが良かった。