奇跡のひと マリーとマルグリット



19世紀末のフランスに実在した「三重苦」の少女マリーとシスター・マルグリットの出会いと成長を描く。
「野獣」だったのが「人間」らしくなったマリーを久しぶりに両親に会わせたマルグリットが直後に倒れるなんてお話としていかにも都合がいいようだけど、見ていてそう感じさせない、そういう映画。あまりによく出来ていて「刺さ」りはしなかったけど、心がぐーっと圧される感じがした。


オープニングはマリー(アリアーナ・リボアール)が「手のひらを太陽に透かして」いるところ。見ればその体は荷車に縄で縛りつけられているが、陽を肌で感じる彼女は楽しそうだ。働き者といった感じの馬が先を走り揺れるたてがみのカットに、それが「見えない」マリーは今、何をどう感じているのだろうと想像させられる。
先月見た「イマジン」(感想)などは「盲目」であることを映画で表す新しい工夫に満ちていたけれど、この映画はそういったことに頓着しない。自然やその中での人間の暮らし、マリーとマルグリット(イザベル・カレ)の関わりなどを丁寧に描き、想像力を喚起させる。単純な私はこちらの方が見易くて好きだ。


マリーがまず覚えるのは、髪を梳かしてもらう気持ちよさ。浴槽に入る際に体をこすってもらっていたのを、布を手に取り自分でやろうとする。清潔な服に身を包むようになる。初潮はまだだとしても、排泄や爪切りなどはどうしていたのかと気になったけど、そういうことを「漏れ」とする類の作品ではない。
そして遂に「言葉」を知る。「『言葉』というものがあると理解する」というのが「どういうこと」なのか、結局のところ私には分からない。それに例えば、本作の最後にマリーがお墓の十字架にお花を掛けるのを見ると、なぜ花なのかと疑問に思う(そういう時には花を供えるものだと誰かが教えたのか?それとも「自然」にそうしたのか?)しかしこの映画で重要なのはそういうことではない。


マリーの手に触れ「檻の中の魂」を感じたマルグリットは彼女と徹底して関わることを決めるが、最後には彼女の方がマリーにあることを教えられ、更にあることにつき「先」を行かれることにもなる。(ヘレン・ケラーの「水」にあたる)「ナイフ」は「クライマックス」では無い。ものを学ぶところで終わる話ではなく、言葉を介した人と人との関わりの物語。だから、マリーが延々と語り掛けるラストシーンが素晴らしい。
邦題の元になった「奇跡の人」とはヘレン・ケラーの家庭教師であるアン・サリバンのことだけど、本作の原題は「Marie Heurtin」。題材をアピールするための邦題なんだろうけど、サリバン先生と共に歩んだヘレン・ケラーと「一人立ち」するマリーとでは全然違う。こちらの方にこそ「マリーとマルグリット」と付け加えられているのはぴったりだと思う。