われらが背きし者



ジョン・ル・カレの原作小説は未読。面白かった。面白い小説を適切に映画にしたという感じ。


まずは結婚生活十年を経たペリー(ユアン・マクレガー)とゲイル(ナオミ・ハリス)の「旅」(「実際」にも、「比喩」的にも)の物語である。始めそれに隠れて見えないがやがてはっきりしてくるのが「諜報員のお仕事」、最後に私が想像した全てを統べる床は「それぞれの『すべきこと』」である。
この映画が面白いのは、いわゆる「巻き込まれ型」の映画の数々と違い、ペリーがディマ(ステラン・スカルスガルド)にひどく魅了されたわけでも「そのこと」により大きく変わったわけでもなく、ただ彼とそのパートナーが、そこを通りかかったらそうせずにはおれない人間だったというところである。「スパイ仕事」は彼らにとって、旅先で立ち寄った場所のようなものである。危機にあった二人の関係は、相手が自分に似ているとの再確認により、より良く更新される。もしかしたら原作には、ペリーはディマに惹かれ、ゲイルは「母性本能」をくすぐられてという「男」と「女」ならではの味付けがあるのかもしれないが、少なくとも映画にはあまり感じられず、そこがよかった。


スパイものとして見た時の主人公は、やはりダミアン・ルイス演じるMI6の職員ヘクターだが、ル・カレものであるということを考えるとかなり「かっこよすぎ」で、それらしいのは彼の二人の部下だろうか。とはいえヘクターの、「人手も資金もない」組織の中で、「裏切り者」を許さないという信念を持ち、関わる相手には信用されず、汚いと非難されながら、大胆に仕事をこなす様は見ていて楽しい。ベルンにて「電話会議サービス」を使ったり、大金を扱ってきたディマが、MI6が「6000ポンド」を出さないために窮地に陥るのが面白かった(尤もMI6はその金そのものを出し渋っているのではなく、イギリス自体が「『そういう金』でも国益になるのではないか」なんて考える、そんなご時世なわけだけども)
「そのこと」に関わる皆が、自身の「仕事」に基づいて行動しているようにも見える。文学者のペリーは「なぜディマを信じた?」とのヘクターの問いに「怯えていたから」と答え、弁護士のゲイルは目的地に向かう列車の中で組織について調べ、マフィアのディマは当人を前にして嘘を見抜く。冒頭、MI6の建物内のがらんとした(=人が去った、とも取れる)部屋で、女王の肖像画をバックに四人が集まる場面が印象的で、この時は夫婦にその意思は無いが、結局はここにいる彼らが「正義」を実行するのだった。「仕事」とは「正義」を行うことが目的である、というのがこの映画の主張の一つであるようにも思われる。


作中二度ある、ペリーが女性を暴力から何としてでも救い出そうとする場面が重要なポイントとなっている。一度目はそれを見たディマが「君は紳士だ、信義がある」と定め、自身が子どもの頃に母親に暴力を振るう男を殺した過去を語り、そうした行為には殺人が伴うこともあり得ると示唆する。二度目には、傍にいたゲイルが彼の性分を改めて認め、帰りのタクシーの中でそっと手を重ねる。
しかし見ながら私が思っていたのは、一度目の場面において、確かに女は始め悲鳴をあげているが、その後の描写は、私にとっては「レイプ」だけど、日本映画なら「普通のセックス」として描かれそうだよなあ、ということである。日本映画のセックスシーンを他国の人が見るとレイプと受け取ることがある、という文章を読んだことがあるけれど、この映画のこの場面を見ると、そりゃそうだろうと思う。