ある戦争



「みんな元気で」の「皆」は「皆」でなく、「世界は我々の望まない方向に進むだろう」の「我々」は「我々」でなく、「皆」や「我々」の島と島とがぶつかるところに死が生じる世界において、何をどう捉え、感じ、考えればいいのか分からなかった。
そこからふと離れた、例えばいかにもトビアス・リンホルム(が脚本を書いてきたヴィンターベア作品)らしい、夕陽を背に軍人と住民が「井戸を掘るのを手伝ったら地雷の撤去を手伝ってくれるか」「平和のためなら」なんてやりとりをする場面が、やけに心に染みた。しかしそこで私が覚えたのは、島の真ん中に居る時の、すなわち縁っこが見えない時の安堵感でしかないのではないか?木に引っ掛かったままの凧には不吉の尾があった。


夫も妻も、そこから「離れられない」。アフガニスタンの紛争地帯に務める治安部隊長のクラウス(ピルー・アスベック)は、地雷の爆発による仲間の死で部隊の皆が「任務の意義に疑問を感じ」「不満を募らせ」ても自身が同行することくらいしか解消の手段が無く、ショックを受けた部下には「帰せない」と言い切り、電話を貸しタバコをやり、一緒にコーヒーを飲むのが精一杯だ。
デンマークで三人の子を育てるマリア(ツヴァ・ノヴォトニー)は、車で送っていった中の子が嫌がって下りず、自分が運転席を出て回り込む間にドアをロックされてしまったり(これは治安部隊が現地の住民をチェックするシーンと対になっている)、トイレに腰を下ろしている間にも中の子に末の子を頼んでおかなければならなかったりする。


幾つもの「対比」、いや「似たような物事」がある。部隊の目の前で(クラウスにとっては始めは指令室で、次には自身の指示による現場で)「死体」が発生する瞬間が二度あるが、二度目には和やかな笑いさえ起こる。マリアが中の子と居る間に末の子が錠剤を誤飲し病院で処置してもらうくだりの後に、クラウスは現地の住民に「あなたの子は安全だがうちの子は違う」と言われる。マリアがクラウスから電話を受け部下が亡くなったと聞く場面やラストシーンで救急車のサイレンが聞こえるのは、どこにでも「死」(の危険)があることを表しているのだと思う。
こうした描写の数々を、どう捉えればいいのかわからなかった。意図が分からないとか、映画の作りとしていいか悪いか分からないとか、そういうことではなく、何を考えればいいのか分からなかった。ただただ、かの人の辛苦が伝わってくるだけ。そういう映画なんだろう。


面白いのは、軽く聞こえる言い方をすれば「あちらを立てればこちらが立たず」の中で踏ん張ってきたクラウスが、思わず一方を立ててしまった途端、一瞬、マリアの方の「あちらを立てればこちらが立たず」も解消してしまうという点だ。そしてその歪みは、社会の最小単位である家庭の中に大きな波となって押し寄せる。内容を知らずに見に行ったので、「問題」が、ある家庭の内側(こちらから見ると、それはガラスの「向こう側」である)のものとなった瞬間から、映画の様相が変わるのに驚いた。