家庭裁判所 第3H法廷


ラテンビート映画祭2020のオンライン配信にて観賞。2020年アメリカ・スペイン制作、アントニオ・メンデス・エスパルサ監督。
「国の正義は弱者の声に表れる」とのジェイムズ・ボールドウィンの言葉に始まるドキュメンタリー。米フロリダ州の裁判所、主任裁判官は同じショーストレム氏のもとに行われる審問と審理の中から選び抜かれた場の数々が二時間映し出される。まずは「場」の映画であり、その特殊性が次第に見えてくる。一部で慣れさせておいて二部でもってじっくり見せる構成が見事。

一部「審問」では関係者の証言が次々と繰り出される。死期が迫っている自分の両親に会ってほしい、次の感謝祭では遅いとの子に対する母親の希望が放っておかれるのに続き、次の母の「里親の愛着は度を越している」について裁判官が語る里親の何たるか。この畳み掛けなど素晴らしい。このパートでは背後の扉から出入りする人々が映っているのが効果的。「今日できることはここまで」じゃないけれど、大事なのはこの外だから。
親権終了手続きにサインした人々に裁判官が掛ける言葉にはふと、小学校の教員をやめた時に(自身は皆教員である)両親にも同居人にもよくぞやめたねと言われたことを思い出した。尤も親権の場合は何よりまず子どものため、私の場合は身内の心情からして私のための言葉だけども(もちろんそれが引いては学校の子どものためになるわけだけども)。

二部「審理」では親権終了の申し立てが二件じっくりと映し出され、集った人々それぞれの在りようが大変に面白い。一件目において、数分間で新しい証言を引き出すための質問を考える弁護士の仕事ぶり。一部と異なりあまり姿を映されない裁判官の「私には時間も戻せないし現状も変えられません、そしてどちらの言い分にも全面的には賛成しかねます」「我々には分からない絆があるのでしょう」との言葉。
二件目の母親は数分後にやっと映ると机につっぷしている。ここまで見てくると、親側の弁護士が追及するのは親に対し行政が適切なサービスを与えてきたか、主張するのはそれにより又はそれによらず親が変化したかであることが分かってくる。この、行政の責任と自身(あるいは他人)の変化を常に念頭に置くというのは私達にも使える考え方だなと思いながら見た。