ウイスキーと2人の花嫁



日曜日が終わる12時を待って夜の海に漕ぎ出す舟々にテーマ曲がかぶる時、冒頭の授業で子どもが発表していた「本土からは160キロ、アメリカまでも海しかない」というこの島のありようを思い起こした。彼らの多くは現在「民兵」である。貨物のピアノを奏でるジョージ(ケビン・ガスリー)、「俺が父親になるなんて」と口に出す「姦淫の罪を犯した」男(名前を失念)、傾いた床を既に酔っぱらっているかのように(確かにもう口にしている者もいる)歩く皆の姿に、沈没寸前の船が酒場であるかのように見え、なぜか胸がじんとした。


安息日に電話を使用するのがワゲット大尉(エディ・イザード)とジョージの母親(アニー・ルイーズ・ロス)だというのが面白い。前者は「英雄気取り」の行動に部下を呼び出すため、後者は息子を電話に出さないため、いずれも自分の勝手だが、この映画はこの二人を、一人は追い出し、一人は許すことで終わるようにも見える。冒頭からジョセフ(グレゴール・フィッシャー)が娘達の結婚により孤独になることを愚痴っては同世代の仲間に「結婚させてやれ」とアドバイスされている(その「先鋒」の牧師(ジェームズ・コスモ)が「式の前金と引き換え」にそうしていることから、それはある種の世代間での取引だとも取れる)のに対し、ジョージの母親は誰とも交流がない。結婚式で彼女がウイスキーを飲み干し仲間に加わることからして、ウイスキーとはコミュニケーションのことであり、島ではそれなくしてはやっていけないことが分かる。二人をどうにかすることは島の延命活動なのだとも言える。


「ミスター・ブラウン」という、ちょっとしたスパイ要素も面白い。本土からの「客」であれ、「私の依頼主」と言う時、その響きはやはり違うものだ。前フリである、冒頭の姉妹の「王冠を賭けた恋」についての談義も面白い。対するジョセフの「それはツイード組合か?」という皮肉には、(ツイードを作る)島の人間の本土への感情が表れている。しかし思えば、ジョセフの職場での電話の「盗聴」を始め、手旗信号や見張りに従事する子らから双眼鏡で海を監視する老人まで、住民の皆のやることなすことは、「島の利益」を守るための島ぐるみの諜報活動であるとも言える。


振り返ると、これは「ウイスキー」から「二人の花嫁」(=新しい世代)が自立しようとしている話にも思われる。婚約パーティにおいて、酔ったジョージに「この島に住む者ならそんなこと言うな」と尚も酒を勧める老人から「酔っ払いとは結婚したくない」と杯を奪って飲み干すペギーの姿と、「商売が成り立たない」とウイスキーのありかを密告した酒場の主人に向かって父親は「島にまたバカが現れた」、他は「ユダ」呼ばわりして皆去る中、一人横に残るカトリーナの姿は、「逃げ場のない島」ではウイスキーを飲まねばならない、という掟への細やかな抵抗のように見えた。


映画は「乾杯」の音に終わるが、作中唯一、乾杯出来ない、一度しか出来なかったのが、大尉の妻ドリーである(演じるフェネラ・ウールガーは素晴らしい女優である)。冒頭の「二人とも島に残る気はなさそうだ」とのジョセフの語りが娘達が「嫁ぐ」ことを表している通り、女の移動とは夫に着いていくことであるこの時代、外からやってきた彼女が宿屋を営んでいる(客の「ブラウン氏」に対し「ドリーと呼んで」なんて口にする)のはどんな気持ちだろうと考えた。「私はあなたのように耳がよくない」ふうに生きるのも彼女の処世術だろう。