ヴィオレット ある作家の肖像



女性作家ビオレット・ルデュックの半生を描く。同じ岩波ホールで見てその年のベストテンに入れた「セラフィーヌの庭」のマルタン・プロボスト監督の作品というので出向いてみたら、やはり面白かった。内容にも共通点が多いのに加え、ヨランド・モロー演じるセラフィーヌ・ルイはよく裸足になっていたものだけど、エマニュエル・ドゥヴォスによるヴィオレットもそうするのが心に残った。
映画が始まると、ドゥヴォスの声で「女が醜いのは大罪だ、美しい女は振り返られるが、醜い女も振り返られる」。その文章について色々考えることは容易だが、映画を見終わると、「ヴィオレットがそう言った」ということから逃れられなくなる。


薄暗い森の中を逃げる女、彼女を閉じ込め掛けられる鍵。タイトルが「Violette」と出ると、帰宅した彼女に座ったきりの義理の父?が金をせびり、執筆中の夫は「しーっ」。どこへいっても歓迎されない女の話だと分かる。
彼女は常に滑稽で、ばたばたしている。訪問先のカミュの秘書には時間が早すぎるとすげなくされ、乗り過ごしたバスを降り道を聞いても無視される。性的に関わりたいと思う相手には拒絶される。しかし見ていて(「見ている限りでは」と言うべきか)辛い気持ちにはならない。自分が捨てられたと思えば石を投げ、笑い者にされたと思えば物にあたる。それらがすがすがしくさえ映るのは、ボーヴォワールヴィオレットの「破壊」につき「女性で初めて性を赤裸々に描いた」と大いに価値を見出し援助したのにも通じ、映画などじゃまだ、女が無様な程に何かを追い求める姿が描かれることが少ないからかもしれない。


全編通じて「分かりやすい」演出がなされる。例えばヴィオレットとシモーヌ・ド・ボーヴォワール(サンドリーヌ・キベルラン)の位置。バーのカウンターで横並びながら「経済的自立が第一」と言うボーヴォワールヴィオレットは初恋の話を始める。レストランで向かい合っての、執筆中の「第二の性」と「飢えた女」の話。劇場で背中合わせでの「気持ちは受け入れられない」。ボーヴォワールは女のため、ヴィオレットは自分のために生きる。ヴィオレットが「あなたが手を握っていてくれたら」と嗚咽するのは電話越しだ。
例えば「階段」。ヴィオレットはたまたま手に入れたボーヴォワールの「招かれた女」をバッグに仕舞い階段を降り、自伝を読み連絡をくれた彼女の自宅までの階段を息急ききって駆け上がる。セーヌ川へと降りる階段は、一度目はモーリス(オリビエ・ピー)の死の知らせにヴィオレットがもしかしたら自分と彼との関係を見つめ直しに降り、二度目は女二人が初めて声を荒げあう、これまではそうするのはヴィオレットだけだったのに、ボーヴォワールもそこに「降りて」きてくれる。


「お金」も印象的だ。パリで一人暮らしを始めたヴィオレットは、闇取引の儲けを床と壁の境目に隠す。警察の手入れに逃げる際に落とした紙幣は頼りなく水に流れていく。口約束を当てにゲランを訪ねてもらった分厚い束をハンドバッグに仕舞う。
ヴィオレットが「生きづらい」のは、お金とうまくやっていけないからというのもある。当時の女性が「お金とうまくやっていく」ためには、彼女の母親(カトリーヌ・イーゲル)が言うように「ただ女であればいい」。しかし夫が家を売ったので農場に移ると言う母を、娘は「男の言うことばかり聞いて」と責める。映画のラスト、妻に財産権が認められたという記者の話に始まるボーヴォワールのインタビューを聞きながら、母親は一人、ヴィオレットが発ったパリの部屋に居るが、おそらく都会を好む彼女が意思で残ったと捉えていいのだろうか(それとも「愛人」だからとか、他の理由が?)ラストシーンの素晴らしさからも分かるように、これは「人はどこに住むかが大切だ」という話でもある(本作は1965年に妻にも財産の権利が認められたところで終わるが、70年までは住居についての決定権は無かった)


ヴィオレットのフェミニンな、ボーヴォワールに比べたら野暮ったくも見える格好が私は好み。登場時からカーディガン、ベルト、帽子などの差し色の赤が素敵、と思っていたら鮮やかな青も纏う。部屋には花。パリの部屋の赤い水差し?の中のそれは始め枯れているが、ボーヴォワールの本に出会ってからは(病に倒れるまでは)常に新しい。花に詳しければ、種類が分かり、見ていてもっと楽しかったろう。