キングスマン



公開初日、TOHOシネマズ新宿にてMX4D版を観賞。MX4Dは「ジュラシック・パーク」で初体験するつもりがチケットがいわゆる瞬殺で叶わなかったことから、同居人がこちらを取ってくれた。嬉しく楽しかったけど、私としては、2Dでも全然楽しめたろう、むしろそちらの方がよかったであろう映画だった。中途半端に体が動くことで少々気が散ってしまった。


MX4Dというのでコリン・ファースの匂いでも嗅げるのかと思いきや、匂いはある一種のものに絞られていた。ミストはばんばんきて、最後にサミュエル・L・ジャクソンの吐瀉物をひっかぶった時には、3D映画初体験の「センター・オブ・ジ・アース」でブレンダンの歯磨き後のうがいを(視覚的に)被ったのを思い出した。映画の「体感」にはこの手の嫌がらせ(笑)が付きものなのだろうか。
動きやら何やらが案外穏やかなので、どうも余計なことばかり考えてしまった。例えばミサイルの照準を変更する場面でカメラの動きに合わせて椅子も動くと、ミサイルの気持ちになりたいわけじゃないんだからさあ、と戸惑ってしまう。「視点が動く」ことと「体が動く」ことの間には大きな距離があると思う。またアクションシーンでは「やられた」人物の衝撃を私も受ける形になるんだけど(作中のコリンが誰かの背中をどすっとやると、背中をどんっとやられる)、なんで私がやられなきゃなんないのと思う(笑)


(以下「ネタばれ」、というか見どころをばらしています)



予告にそそられて見てみたら、予告を見ておいたおかげで更に楽しめたというのが私にとって嬉しい映画。本作はそうだった。あの画、こういう場面だったのかという面白さが存分に味わえた。特に犬のアップとタロン・エガートンのウインク(笑)彼演じるエグジーが仲間と車に乗ってひゃっはーと騒いでいるところも、映画の冒頭でその生い立ちと今の暮らしぶりを知ると、予告の時点での印象と全く違うものが胸に迫ってきた。エグジーが後に見せる、仲間に対する忠誠心や「手癖の悪さ」は当初から彼に備わっていたものだが、適切な場がなければ適切には発揮されないのだ。


オープニングで示される「コードネーム」の数々と、「17年後」の場面で描かれる「因縁」に、「イギリス」の材料でもって「アメコミ」という料理を作ってるような映画だと思いながら見てたんだけど、そのうち柱は「昔」の007シリーズだと分かる。今どきあんなもの背負って大気圏ぎりぎりまで出向くスパイの図には笑ってしまったし、敵地に乗り込んだエグジーが降り立つ時やガゼルとの最終決戦の時のBGMの使い方にはスクリーンから濃厚なボンドの匂いを嗅いだ。スパイものとしては、マーク・ストロングが銃を撃つ(勿論凄腕、というだけじゃなく場内のこの日一番の笑いを取る)のは想定内だとしても、マイケル・ケインまでが銃を手にする場面があるのが嬉しかった。やっぱりどきどきするね。


今年に入って「映画界のエリート化」を危惧する声が上がっているという記事(「労働者階級の子供は芸能人にもサッカー選手にもなれない時代」)を読んだので、「貴族階級の特権は消えた」「学ぶことで誰でも紳士になれる(機会を得られる)」というハリー(コリン)の台詞が「証明される」ことこそが、この映画が描く一番の「夢」なのではないかなどと考えてしまった。労働者階級出身でその階級出のスパイを演じてきたケイン様が「上流階級ぶっている俗物」を、名門の演劇学校を出た(階級は知らず)タロン・エガートンが「労働者階級の有望な青年」を演じているのは面白い。


作中のハリーは排他的なアーサー(ケイン様)に対し「世界は変わった」と言うが、この映画の中の世界は実のところその昔と「変わった」のだろうか?候補生達の描写を見るにどうもちぐはぐな印象を受けた。あるいはマシュー・ヴォーンは、「世界は変わる」と信じる者、その教えを受け継ぐ者がいるということが大事だと言いたいのかもしれない。それは本作の最後のクレジットに表れていたように思う。