プリデスティネーション



原作となっているハインラインの短編小説「輪廻の蛇」は未読。「タイムトラベルの矛盾から生まれた者」の、永遠の孤独の物語。


イーサン・ホーク、昨年「ビフォア・ミッドナイト」を見た時は、問題を解決せずにごまかそうとして(彼が「家事をしない」ことが問題なのに、「ロマンチック」な言動でうやむやにして映画が終わる)糞と呼ぶのも勿体無い程の奴だな!と思ったけど(そういう映画なんだと言われそうだけど、あまりに一体化してたので…笑)本作の彼は良かった。


女は高いヒールのパンプスに男はスーツという世界から、「Predestination」というタイトルとイギーの雄叫びが同時に出て、違う意味で統制されている「1970」年へ…というオープニングに惹き込まれた。大好きな「全ての場面が連携している映画」、いわば究極の「全てが繋がっている映画」だったけど、繋がり過ぎており、私の頭じゃそこから外へと出られず味わい尽くせなかった。実際に起こる「と思うことが出来る」物語じゃないと、疑問だらけになってしまい没入できないんだと思う。


冒頭のバーでの、イーサン・ホークサラ・スヌークのやりとりが面白い。わざとらしいほど全身を使って酒を注ぎものを食べるイーサンと、表情ばかりがうごめくサラ(顔が魅力的過ぎて目が離せない!)の対比。青年が語る回想シーンの合間に挿入される、二人の体勢の変化。始め閉じたカウンターの中と、それに沿った外に居たのが、そこを出て、押したり引いたり、それが握手に至り、やがて左右対称の「対」になる。


「宇宙慰安婦」選考の面接でのジェーンの態度は、これまでとあるシステムの中でfreakとして差別されていたのが、初めて外のシステムに接して解放されたんだろうか。しかしそこには更に大きな差別があり、そのことは、「くだらない喧嘩」の際に男性コーチ?にはがいじめにされたジェーンが身動きできなくなる画に表れているように思われた。映画における「宇宙」への憧れとは、そこにfreakという概念が存在しないことによる…なんてことは、宇宙に興味の持てない私以外の人は皆、とうに気付いてるんだろうか。


(以下「ネタばれ」あり)


ジョンがジェーンに「会った」時、「こんなに綺麗だったのか」と驚くのは何故か?閉じた円環の中でも(この場合「心」の)「変化」があるということだ。振り返ると一番心に残っている言葉は、彼が彼女に言い残す「Stay here」。彼の目にはベンチに腰かける彼女が永遠に感じられるかもしれないが、彼女も進み、変化する。「自分」から見れば他者は止まっているように感じられるが、そうではない、そういう話でもあるように私には思われた。