シーモアさんと、大人のための人生入門



オープニング、シーモアさんが自宅でピアノの練習をしている。撮影のためか説明しながら行われる、この場面がまず面白い。この音が引っ掛かってしまうからどうにかせねば、何か削らなければいけないかな、いや、少し早く指を動かしたらどうかな、とやってみる、再度練習してみる、これでいい。こういう「やり方」は全てに繋がる。
「逆」に、他のことについてこういうやり方がいいと思えば、それをピアノに適用したっていいのだと気付く。そういや子どもの頃の私はどういうふうにピアノを練習していたっけ、今ならどうするだろう、などと考えた。


シーモアさんは話がうまく、映画での見せ方も楽しい。グールドが演奏している映像にかぶる、師匠の一人の「サー」クリフォード・カーゾンとコンサートに行った際のやりとりの思い出、この映画を撮ったイーサン・ホークの話に「付け足」すサラ・ベルナールの逸話、更に時代を遡って「月光」を弾きながらの、「本当かどうか分からないけど誰がが書いていた」ベートーベンの話、全てに惹き付けられる。
圧巻は、演奏中のカーゾンの情感豊かな表情に迫るカメラをバックに語られる、「女王陛下への手紙」のくだり。「今となっては分からないけれども」…


「人格の源はその人の持つ才能の中にある」とは面白いことを言うなあと思っていたら、見ているうち、そのことこそが、シーモアさんの目指す真理であり彼の独自性であり、またイーサンが得た「答え」だったと分かってくる。
シーモアさんいわく「演奏がうまくいかない時には、素の自分もダメな人間に思われた」。それでどうしたのかというと、終盤友人の「演奏家としての君と友人としての君が同じであるのが素晴らしい」との賛辞に彼はこう答えるのだ、「昔はその二つを統合できなかった、でも練習時間を倍にしたんだ」(!)役者としての思いを打ち明けたイーサンは「それは演技を通じて出来るのでは?」と返され、I can, I can...と繰り返す。


レッスン中にシーモアさんが生徒の腕に掛けた手からは、彼の言葉が流れ込むよう。弾き方を教えるのに肩に手を置いて一緒に体を動かす、あんなピアノの先生がいるなんて。
面白いのは、シーモアさんが指導するのがまず、スラーやスタッカートなどの記号に忠実であれという指摘であること。私からしたらとても上手いピアニストでさえ、楽譜に書かれているのに見えていない部分がある。彼によれば、音楽とは予測可能(predictable)なものである。だからそれと表裏一体である「創造」の必要性が出てくる。シーモアさんが「演奏者は再現と創造をしなければ」と生徒にも作曲を勧めることや、映画の最後に演奏するシューマンの「幻想曲 第3楽章」のラストが、「突如演奏者に委ねられている」(いわく「ここは問題(the problem)」)ということには大きな意味がある。


元は「パトロンの女性」のものだったお気に入りのピアノについて「普通のピアノなら弾いた音が消えるのに、これは広がる」と言うのが不思議で、調律の問題じゃないよなあと、以前NHKスペシャルで見た、ショパンコンクールの出場者に使ってもらう為に必死に頑張る各社の調律師のドキュメンタリーを思い出していたら、シーモアさんがコンサートで使うピアノをスタインウェイ社の地下で選ぶくだりがあり面白かった。
ここで彼は「ニューヨーク生まれ」の一台を選ぶ(本作は、いきなり「I Love New York」が出てくるし、スタインウェイが当たり前だし、超・ニューヨーク映画である)。後にいわく「ピアノは全て違う、木も違うし、響板は生きているし、人の手が加わっているから」。自宅のピアノはまあ、そういうことかと思う。それでも不思議だ。