公開初日、TOHOシネマズ錦糸町にて観賞。
アンジェリーナ・ジョリーのシアトリカルな顔芸と声が素晴らしい。とくに口を閉じたままで発せられるセリフの数々が絶品で、いつまでも聴いていたかった。
物語はどこから語られるかに依る。子どもの頃に読んだ童話やディズニー版の「眠れる森の美女」は女の子が産まれたお祝いの日から物語が始まるが、「マレフィセント」(「あなたたちもよく知っているお話」)はマレフィセントがステファンに出会った日から始まる。
オープニング、大木の上で、羽根をベッドに、自分で?作った木のつがいの人形を魔法で操り遊ぶマレフィセント(長じてはアンジェリーナ・ジョリー)。後に仲良くなったステファン(長じてはシャールト・コプリー)に対し「私も両親がいない」と言うけれど、彼女にはまず羽根と魔法があった。一方ステファンは、その二つどころか環境にも恵まれていなかった。「人間の国は(愚かな治世者のため)不満に満ちていた」というナレーションや最後の言葉からして、マレフィセントがステファンのことを許していると分かる。
「羽根」の描写が面白い。もし私にあんな大きな羽根が付いていたら…例えば歩いたり走ったりしながら喋ることは出来るけど、動きが複雑になると組み合わせるのは難しそうだから…羽根を使いながら他にどこまで出来るだろう、などとナンセンスなことを考えた。
この世にマレフィセントのような羽根を持つ者は他にいない。妖精三人組の一人シスルウィット(ジュノー・テンプル)が彼女について「いつも大きなのを羽ばたかせちゃってさ」と言うのが心に残った。三人組の羽根は虫のような動きで、意思を感じさせない。マレフィセントの羽根には「彼女」が通っている。薬を飲まされ意識を失うと羽根も「おちる」描写や、クライマックスの「羽根目線」とでもいうべきカメラワークもよかった。
もう一つ注目してたのは「お城」。幾つものディズニーリゾートのシンボルがどのように描かれるのかと思いきや、この物語では醜悪な支配者の根城なので、全く魅力が無い(恐ろしさもそう感じさせない)。「スノーホワイト」のような攻城戦も無く残念だった(投石器がちょこっと出てきたのは嬉しかった・笑)しかしラスト近く、オーロラが夜明けの光(=「オーロラ」)の中でお城を見やりながらマレフィセントを待つ場面は美しかった。
近年のディズニー映画を見る度、古典落語の改作(の一部)に感じるのと似た思いを抱く。第一に、完成された物語を「変える」のは難しい。例えば本作の妖精三人組の「使い方」など、どう考えてもディズニー版の方がスマートだ。「改変」されるほど「くすぐり」ばかりが多くなってしまう。
第二に、時代に合わせるために改変するといっても、お話自体は「それ」を使う限り、限界がある。落語で言うなら、どんな改作だって「紺屋高尾」は「紺屋高尾」だから、男の人は頑張れば美人に会えて(選択肢が多くて)いいよね、と思ってしまう(笑)ディズニーの「プリンセス」ものは「プリンセス」が出てくる話ってことに変わりは無い。例えば本作では、少女時代のマレフィセントが木の妖精に「あなたはハンサムよ」、オーロラだってどんな外見の者とでもはしゃぐけれど、多様性を描くといっても、所詮は「美女が『醜い』者を『認める』」という枠から出られないのかと白けてしまう。私がSFやファンタジー、ひいてはアニメーションが苦手な理由は、表現の全てに「恣意」が行き渡っているからかなと思う。関係ないけどムーアの国の描写には、(「美少女」との戯れという点でも)「ラビリンス」などのジム・ヘンソンものを想起した。
私としては、主人公が「王子様を待つ」だけの物語は「よくない」などの考慮によって改変された、端的に言えば「男は必ずしも必要ない」(でも何らかの類の「愛」は必要!)という物語を何度も見せられるより、男女を逆にした物語を一つだけでも見る方が楽しい。それが「歪」に映るんであれば、それはそれで意義があると思うし。「魔女」や「継母」といった通念を作り上げた「罪」は消えないんだから、彼女らにも事情があった!なんて言い訳されるより、「男」にも同じような枠のキャラクターを用意して選べるようにしてほしい。ダニエル・クレイグが「ボンドガール」を兼ねる007シリーズなど、この路線に近いんじゃないかと思う(笑)