フルートベール駅で



この映画、好きだなあ。最初から最後までとてもよかった。順に少しずつ注がれたものが、心にみっちり溜まっていく感じ。
10代の頃に付き合ってた黒人男性が、シーフードのシチューをごはんに掛けたものを「好物」としてよく作ってくれたのを思い出した。黒人やシチューが出てくる映画なんて幾らも見てきたのに、長らく忘れてた。そんなふうに、心の底を浚う感じの映画だった。


男女の他愛ない会話…もっとも「新年の抱負」を女は「ダイエット」、男は「麻薬をやめる」なんて言うのをそう表現していいものか、そこに既にこの話のエッセンスがある…をバックに、黒いスクリーンに「Significant Productions」。そこでもう、何だかぐっときた。調べたら製作総指揮を買って出たフォレスト・ウィテカーのプロダクションの名称らしい。
制作の元となった事件を誰かが撮影した「本物」の映像、それが消えて一発の銃声、そしてタイトル。


映画はオスカー・グラント(マイケル・B・ジョーダン)とガールフレンドのソフィーナ(メロニー・ディアス)と彼らの娘タチアナ、三人の大晦日の朝の様子から始まる。オスカーがあちこちへ行き、色々な人(犬も!)と接する様子が描かれる。
「個人」だけじゃなく「街」の様子もよく分かるように撮られている。オスカーは運転中に一人になると周囲の何も聴こえないくらい音楽の音量を上げ、いつも通りの街のことなんて「見」ちゃいないけど、私にはよく分かった。高架の向こうのハングル?の広告や、ベビーカーを押して歩く大人達。
駅や電車の撮り方もいい。年が明けて目的地に到着し、仲間達がエスカレーターで出口まで上る様子、オスカーが「最後の電車」に乗り込んだ後、車両が激しく通過する様子(かなり長々撮られている)など、見ていて面白い。
何気によかったのが携帯電話の描写。単純なやり方なんだけど見易い。それにしても、「2009年」ってもうあんなに「昔」なんだ。


冒頭、オスカーとタチアナが朝食を台所で立ったまま取っているのが気になったものだけど、オスカーがソフィーナを仕事に送る辺りから、二人の間に、冒頭の「浮気」に関するやりとりからだけじゃない、ぎくしゃくした空気を受け取る。私が彼のパートナーなら、何かすっきりしないという感じ。映画がその「理由」をおいおい教えてくれるのと共に、緊張感の方は薄れてくる。寝て起きた朝は新しい一日だからまだ緊張してたのが、一緒に居るうちに馴染んでくる、だってお互い好き合ってるから、というのはあると思う。
何が言いたいかっていうと、オスカーとソフィーナの関係、あるいは彼らは、まだ「中途」だったってこと。そりゃあどんな関係だって「中途」と言えるし、どんな状況下だから何だってもんじゃないけど、見ていてつくづく悲しかった。


オスカーは車を運転しながら音楽だけを止め、誕生日を迎えた母親ワンダ(オクタヴィア・スペンサー)に電話を掛ける。察した彼女はイヤホンを使うよう言う。こんなふうに、人々は、少なくとも愛し合う人々は常に互いの命を守り合っている。こうした描写も「結末」を知っているだけに悲しい。
金策に詰まり麻薬を売ろうと海に出向いたオスカーは、海を見ながら回想する。留置所にて、面会に来た母親に向ける瞳と、悪意を露わにする「敵」に向ける瞳の、あまりの違い。ワンダの「もう会いに来ない」の言葉にショックを受けたオスカーが「また遊びまわる気か」と返すと、そこに(その言葉から連想されるようなものだったにせよ、そうでなかったにせよ)二人の「過去」の存在が表出する。「伝えたい」ことがあまりにはっきりしているせいか、全く無駄がない映画だと思った。


印象的だったのは、オスカーが母親に買うバースデーカード。本人に「白人のはダメ」と言われていながらあれを選んだのは、別にいいじゃんとか、白人のことを嫌って欲しくないとか、そういう気持ちを、若さゆえにああいうふうに表したんだろうか。母の元に残った最後の形あるメッセージがあのカード、というのが何ともやるせない。
オスカーは2009年に22歳だから1987年生まれ、母親は60年代の生まれ?その親子の「人種差別観」の違いに、「大統領の執事の涙」(感想)も思い出した。それは引きずってくれば、例えば自分と母親の、女性差別に対する考えの違いなんてものにもつながる。
あのカードを買うのが「いい」ことなのか、買わないのが「いい」ことなのか?大げさな言い方だけど、その選択、それに責任を持つのが「生きる」ってことだろう。もし自分なら、なんて、想像は出来るけど、やっぱり出来ない。