僕はラスト・カウボーイ



アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画」にて観賞。2008年、ザイダ・バリルート監督作品。原作はアンッティ・ライヴィオの戯曲。


オープニング、制服を着て列車に揺られ帰ってくる兄。その晩、若者達が革の上着でバイクやボルボに群れている様子にいつ頃の話だろうと思う。アキ映画でいうと「愛しのタチアナ」より少し後かなと思っていたら、随分と時代が下って1982年、兄が回想するのは引っ越ししたての家でミュンヘンオリンピックの中継を見ているので1972年であった。兄弟によるフーリガンズの真似っこ(兄がベース・笑)、スレイドのカセットテープ、「Sugar Baby Love」の使い方は「プルートで朝食を」にやはり似ている気がした。誰もが嫌なことばかりと知っている。世界が自分にすっかり優しい時にこの曲は流れない。


兄は弟のために作った誕生日のケーキをベッドまで運び、フィンランドの歌を歌う(映画を見ていると北欧の人達は国旗を飾ったり国歌を歌ったりを日常的にしているから、そういうものなのだと思う)。後にこれも彼の「砦を守る」行為なのだ、弟はこうしたことを指してそう言っているのだと分かってくる。母が父に殴られた翌朝、兄は「ドアノブについた血と髪を必死に拭ってきれいにした」。子どもにはそれしか出来ないのだ、つまり大人に作用することは出来ないのだとつくづく思った。しかし最後に分かった、これは兄弟の物語、兄弟は違うという話でもあったのだと。思えば映画は、兄と弟は違うという語りに始まるのだった。回想において、兄は何度も父と対峙するが、弟にその機会はない。


始まって早々、スピルバーグの「幽霊列車」(「アメージング・ストーリーズ」の一篇)とそっくりな事態が起きるのでびっくりしていたら、ここにやって来るのは「幽霊列車」ではなかった。父が引き出しにしまっておくはずのものを出してしまった、母を一度は線路で救ったのに二度目はかなわなかった、兄にとって世界は「取り返しのつかない」ことばかりである。「たまに父から母の匂いがした」ことの「理由」を彼が知ったら、あの理不尽な現実をどう受け止めるだろう。自分は世界を悪くしていない、世界は元よりあるのだと思うだろうか。