MUD -マッド-



14歳のエリス(タイ・シェリダン)は、アーカンソー州の川岸に両親と暮らしている。親友のネックボーンと彼は中州に出向き、洪水の際に木に引っ掛かったままのボートを「秘密基地」にしようとするが、そこにはマッド(マシュー・マコノヒー)と名乗る先客が居た。


オープニング、エリスが部屋を抜け出した後にカメラが引くと、家ぎりぎりのところに水面があり、それが「ボートハウス」だと分かる。少年二人がボートでゆく川面も低い視点から撮られる。中盤、父親から離婚のことを知らされたエリスは夜中に水面を切り裂く。そしてラストは、大人二人がより高い視点で眺めるゆったりした川の流れ。
作中では、漁やがらくた拾いで生計を立てている人々の暮らしが「行政」によって壊されようとしている。その中で育ち、「町では暮らせない」(なんて言う)少年。物語はあそこで終わるのが「正解」だけど、彼のことをもっと見ていたかった。


本作は、よくある「主人公が『あなたは昔の私のようだ』と言われる」モノでもある。大抵終盤に出てくるこの言葉が、この映画では初対面の場面で放たれる。そういうのもアリなのかと思いながら見ていたら、別の人物による「彼は人をおだてて味方に付けるのが上手いから…」というセリフに、あの言葉にはそういう意図があったのかもと推測できる。これが面白いなと思った。
エリスとマッドの言動には確かに共通点がある。マッドの「告白」の内容に沿うように、エリスは「好きな女の子」に絡む男を排除しようと、いきなり殴りかかる。後にはマッドの「愛する女」を助けようと同様に割って入るも、今度は相手が「大人」なので吹っ飛ばされてしまう。エリスにとっては「愛」も「暴力」も、すごく単純なことなのだ。マッドにとっては…「悪党なんて(殺したところで)気にしなくていいんだ」。私には彼が、大人でもあれば子どもでもある奇妙な存在に思われた。どちら側にも手の届くマッドだからこそ、エリスを「今よりは大人」の側へ渡すことが出来たのだ。


エリスが初めて見るマッドの顔と、(作中)最後に見る父親の顔がかぶるように撮られているのがいい(前述したように、マッドに「父親」の要素は無いんだけれども)。今は「うちの外」にばかり関心のあるエリスと両親とが一緒に居る場面は少ない。そんな中、ハウスボートを「行政」に壊されるという話を聞いたエリスが、マッドから聞いたばかりの言葉を使って「実際に住んでる人のものだ」と父親に言う場面がいい。児童(を描いた)映画にはこういう、子どもが大人の言い草の真似をする場面がよく出てくるけど、そのたびに胸が痛くなる。「大人の責任」を感じるから…だろうか?
両親の側の「事情」があまり描かれていないのが却ってよかった。同監督の「テイク・シェルター」にはぴんとこなかったけど、本作はしっくりきたのは、少年目線であいまいな部分が残されていたからかもしれない。同様に、映画に例えば殺人や盗みといった「悪事」が出てくる場合、それらが「認められる」か否かは、「分かる」ようになっている、いつの間にか作り手と観客との間に無言の「約束」めいたものが交わされているものだけど、この映画はどっち付かずのまま進み、それが絶妙なおとぎ噺感を醸し出している。


冒頭、バイクにまたがって待つネックボーンは体つきこそエリスの「兄貴分」といった感じだけど、喋るとまだ声が高い(私としてはこれが、彼の叔父(マイケル・シャノン!)がエリスに向かって言う「あいつはお前を慕ってるから…」とのセリフに繋がる)、というのにぐっときて、ここから映画に引き込まれた。中盤、二人がバイクで国道沿いのバーに出向くと、店の前にもっとごついバイクがずらりと並び、少年と男の違いをシンプルに表しているのも面白い。
始めからマッドに興味津々のエリスに対し、ネックボーンの方は、始めぴんときていないふうなのが、マッドも自分同様「両親が居ない」ことを知ってから見る目が違ってくる。エリスがマッドの「最後の頼み」のために島を離れる際に振り返ると、作中初めてマッドとネックボーン二人の画があり、これにもなんだかぐっときた。


実は一番印象的だったのは、なぜこれを挿入したんだろう?と思ったからというのもあるけど、終盤、とある父親が息子の死を電話で知らされる場面。ここにも親子があった、ということだろうか?