鉄くず拾いの物語



ダニス・タノヴィッチ監督が、故郷であるボスニア・ヘルツェゴビナの新聞で知った出来事を、当事者の出演により再現した作品。とあるロマの一家が、貧困ゆえに医療拒否の問題に直面する。


冒頭は一家の「日常」。テレビのチャンネル争いをする娘二人をさばきながらストーブに火を入れる妻セナダは夏服だが、夫ナジフが外へ薪を割りに出ると雪がちらついている。適度に温める、なんて出来ない。ナジフが仲間と廃車を解体し、換金し、寄り道し、帰宅して「今日の分」とお金を渡すと、セナダは料理から目を離さず「明日は頑張ってね」。もっと優しくすればいいのに〜と思うも、後に妻が腹痛で横になっている時、夫は「食べ物はある?」と聞く、互いに役割を果たさなければやっていけない、ぎりぎりの暮らしなのだ。しかしそこに冷たさは無い。芋と肉を炒めた夕食を、皆で「美味しいね」と食べる。
当事者による再現ドラマというので、子ども達はどこまで「分かって」るのかな、母親の苦しそうな演技を見て心配しないかな、と思ったんだけど、まだ幼い二人は「病気」も「演技」も理解していないようで、少し安心した。彼女達の「遊び」(家の中でドアや机を揺らしたり、病院で階段を縦横に行き来したり)や、電力会社の社員が電柱から下りてくる様子などを長々と捉えた映像には、ドキュメンタリーのシンプルな楽しさがある。


腹痛を訴えるセナダを車に乗せ、一家は都会の病院に出向く。彼女は流産しており掻爬手術が必要と診断されるが、保険証が無いため高額となる費用を払えず、手術は受けられない。分割払いは拒否され、医師は「病院に雇われている自分には権限が無い」と言う。
帰宅後、ナジフは一人静かに村外れのゴミの谷へ下りて行く。ベッドのスプリングや自転車の車輪などを選って運び上げ、ぼろぼろのカートに積んで戻る。後日、セナダの妹の保険証を利用し、別の病院でようやく手術を受けられると、薬代と電気代のために自分の車を壊して鉄くずにする。仲間が手伝い、同行する。車の前の座席に並んだ三つの男の後頭部。追い詰められていても穏やかなナジフの言動が、ゆったりとしたリズムで描かれる。
組織のスタッフを乗せて家に向かう車内で、ナジフは兵士として参加した、いや、させられた戦争について語る。亡くなった兄弟の死骸は「頭しか無かった」「あんなの誰も耐えられない」…でも、戦時中の方が今よりましだったと言う。「恩給はもらえず、生活保護子ども手当ても無い、鉄くずを拾って暮らしている、どうしていいか分からない」。


最後、一家に「日常」が戻ってくる。帰宅したナジフはセナダの肩を抱くも「手が冷たい」と言われ、替わりに?頭をのせてくつろぐ。彼が外へ出て行くも、妻の目はテレビの方を向いたまま。薪割りを終えた夫は、冒頭のように妻に「取りに来て」とは言わずに自分で抱えて家に入る。戸口の外からのラストカットに、作り手の家族は家族で、というあたたかい目線を感じてほっとする。今後また誰かが病気になったらどうするのか、彼らだけじゃなく他の貧困者達はどうしているのか、と考えずにはおれないけど。
中盤、手術を受けられずじまいで帰宅したセナダが、協力してくれる組織のスタッフに対し「もう(病院に)行きたくない」と言うのが心に残った。拒否されるのは辛い。でも妻や娘のことを大切に思う夫が居るから、事が進む。よかったと思う反面、家族や親しい者と支え合えば生きていけるというのは、そうしなければ生きていけないということでもあり、「残酷」な世の中だと思う。


エンディングロールに響くのは犬達の吠え声、作中どこに行っても犬がいる。人間達が餌をやる場面はおろか、触る場面も無いんだけど、しじゅう周りをうろついたり飛び回ったりしている。何気に犬映画でもあるのだった。