かぐや姫の物語



興味はあれど少々腰が引けてたのは、しんどい話なんじゃないか、正確に言えば、見たらしんどい気持ちになるんじゃないかと懸念してたから。実際に見てみたら、姫が「女」であるがゆえに直面する辛苦は、現代の目で「竹取物語」の大筋を読んだだけでも想像しうるものだった。それを分かりやすく提示するのに「意義」はあるかもしれないけど、映画はしょせん二時間で終わりだし、なんて(他の映画に対しては思いもしない無意味なことを)思ってしまう。それはこの映画があまりにかっちり出来上がってるからかもしれない。「姫の犯した罪と罰」…地球に憧れたという罪により、地球に堕ちて地球を恨むようになるという罰を受けた者の物語。


月から迎えが来て、姫の顔から表情が消えたのには確かにショックを受けた。汚れていても、色んな顔の出来る「生」がいい。でも映画と自分の「現実」とを振り返ると、世の中がこんなふうなら、「生」なんて捨てちゃってもいいんじゃない、とも思う。「よき部分も悪しき部分もまるごと」とか、「人間の業の肯定」(とはどこかで聞いた言葉だけど…笑)なんて強者の言うことでしょ、と思う。私の感想は、「生」の素晴らしさの再確認と、こんな世界、滅んじゃってもいいという気持ちとの相克で、それは結局、この映画を見なくても、いつも感じてることだ。


裳着の式の際に姫の心が爆発するのは、自分が常に「評価され」「求められ」「愛され」る、「対象」の側の存在だと眼前に突きつけられたから。終盤の「私は何をしてきたのか/駄々をこねていただけ…」というセリフに、でも、どうすればよかったの?と思ってしまった。逃げ道はあったのだろうか。捨丸との一度目の再会が「分岐点」の一つだったのかもしれない。降りて彼の手を取れば違ったかもしれない。でも姫は常に月の監視下、月の手中にあったから、あの時にも月の力が働いてたのかもしれない。
作中唯一涙がこぼれたのは、姫と捨丸の二度目の再会シーン。「おれがたけのこ(姫の幼い頃のあだ名)を背負って全速力で走る」(「私も全速力で走る!」「やっぱりたけのこだ!」)なんて「陳腐」な台詞に泣けてしまった。ここで姫は、もう道が無いってことに気付くのだ。私の中では、「悪の法則」でファスベンダーが電話しながら泣く場面と通じる。


メリダとおそろしの森」でも、メリダの求婚者達のキャラクターが驚くほどぞんざいだったものだけど、「女」を「しっかり」描こうとする近年の映画の多くが、「男」を「敢えて」適当に…単なる馬鹿のように描いてるのは好きじゃない。本作もしかり。第一に、「女」が「男」に関わらずにやっていけるとしても、それは男が馬鹿か否かということには関係ない。第二に、フィクションにおいて性欲を抱いたり頼ったりする女も居た方がいい、そうしないと「現実」の男女の溝が開いて余計生き辛くなるから。
侍女の女童の「口」が大きいのも印象的だった(他の侍女達には口、どころかちょっと遠景になると顔の部品が無い)。彼女は服、酒、男というシンプルな快楽に遊び、最後は月に対してに唯一効果のある「逆襲」をする。でも「なんとしてでも!」とまでの意気込みは感じさせない、そこがいい。教育係の相模も憎まれ役というほどじゃない。姫が琴の練習をせずとも爺が現れると見事に弾いてみせるのに、「私と一緒の時には弾かないのですが…」と繕わず言う場面が心に残った。


月の人々が演奏する音楽は、まあそれでもいっか、と思ってしまうという点で、「恋するリベラーチェ」のロブ・ロウのオフィスで流れてた音楽を思い出した(笑)でもあれより恐ろしいな。