パパの木



予告から想像してたよりずっと面白かった。シャルロット・ゲンズブールとその役柄が、とても好き。「女」として「母親」としてじゃなく、「人間」として。


本当に真っ暗な夜、輝く月、ハンモックに揺られる二人。男が長期間の仕事に出掛ける前夜、はしゃいで落ちたら落ちたままのシャルロットの姿に心惹かれ、期待が高まる。
冒頭しばらく私にとっては意外な喜び、「乗り物」映画だ。ハンモックの次にはトラックで家屋を運ぶ場面。男が相棒の運転中に家のドアを開けると、その眺めはまるで列車からのよう。次いで本物の列車と、橋の下からいつもそれを眺めて遊んでいるらしき二人の少女。片方の父、先程の男のトラックの荷台に立ち乗りして帰る途中、外国映画で空のプールの中をスケートボードで遊ぶような感じでぐるぐる回る、自転車の少年達とすれ違う。
しかしその後、父、あるいは夫がゆっくりと「木」に突っ込んでから、乗り物はしばらく出てこない、少なくとも乗り物の「楽しさ」は出てこない。長男が学校や「稼ぐため」のアルバイトに自転車で出掛けるくらい。余裕のない母は「送っていけないから一人で行って」と言う。


シャルロット演じるドーンは夫の死後、気力が湧かず、花を枯らせ牛乳を腐らせ、子どもたちがぐずぐずしていれば「そんなんじゃ私は出てくわよ!」。4人の子どもに1人の大人。4人の大人にあれやこれやと世話してもらい育った一人っ子の私は、無い物ねだりながらあの家族が羨ましい。ちなみに台風の日に末っ子が「こわい」と母にしがみつき、他の子らが「やっと喋った!」の場面には、岩館真理子の「森子物語」を思い出した(笑・もちろん長女のシモーヌが森子ね)
義姉が「弟には欠点もあった」と言えばドーンは「私には完璧な人だったわ、ベッドでも最高」。親しくなったジョージに自分について語る内容は「父を待つのにうんざりしたから結婚で人生をリセットしたの」「そのうち夫が自分にぴったりだと分かってきたの」。働いたことが無いのは「夫が十分稼いでくれていたから」。やれることはやる、やらないことはやらない。愛する人は愛する、愛さない人は愛さない。なんてすがすがしい、と思う。


近年のシャルロット出演作の中で、本作が最も「少女」のように見える。「木」に登って座り、煙草を吸う横顔など昔のままだ。線一本のジャージ姿もいいけど、職に就いてからの、白いシャツブラウスにデニムのスカートやジーンズという格好がやっぱり素敵。
ドーンはイギリス人とフランス人の間に生まれオーストラリアにやってきた女性、シャルロットは全編英語を話す。夫の葬式の日、義姉に「皆に挨拶しなきゃ」と言われ「I can't」(カント!と聞こえる)と返す場面でやっと、ああ英語を喋ってる、と思う。後に娘のシモーヌは友人に向かっていわく、おそらく戯れに「18になったらフランスに行ってママの家族のところに住んで、お店で働くの、名前を聞かれたら『私はシモーヌ(フランス語)』って言うの」。


近所の人達からしたら、一体何なの?って話だ(笑)「木」のせい、夫・父親を失ったせいで家が次第にぼろぼろになっていき、留守や台風でもって住めなくなってしまい、当てもなく移動する。そういうことに「抵抗」しない、動ける方が動く、というのが性に合っているのか、見ていて気持ちよかった。
家が崩壊していく様子も何だか可笑しいし、家族で蛙を「流す」場面には心から笑ってしまった。映画館でこういう気持ちになったこと、しばらく無かったな、というような笑い。


「木」に父が居ると信じ語り掛けるシモーヌの心境やその「変化」については、いくらでも考えたり説明したりできるんだろうけど、本作を見ていると、そっか、そうかもね、とただ受け入れたくなる。
「クライマックス」、彼女は木を切るのに反対してその中に居座る。この一幕、始めから一人一人の立場や姿勢が「決まって」そこに居るわけじゃないのがいい。始めはドーンも呑気に構えているし、次男と友人達は根っこにつまづくジョージを見て笑っている。しかし互いの内を互いに受け取っていくにつれ、場の空気が変わっていく。映画の面白さだと思う。


変なもので、「木」を捉えた映像よりも、それ以外のちょっとした場面の方が心に残った。例えばドーンがクリスマスをジョージと過ごそうとしていると知ったシモーヌが走行中の車から降りようとする、ドーンが車を停める、シモーヌが降りるとトラックが横を通過する。シモーヌが海中の巨大なくらげに魅了されていたのが、魚を食べるのに怯えて水から上がるも家族がおらず、砂浜を走って探す。どちらも別に「スリル満点」ってわけじゃないんだけど、なぜかぐっときた。