リアル 完全なる首長竜の日



黒沢清の映画を初めて観たのは、数ヶ月前に松重豊繋がりでお薦めしてもらった「地獄の警備員」(本作にも彼が出てたから嬉しかった、しかもいい場面だった)。新作が折角シネコンに掛かってるので出向いてみた。


(以下「ネタバレ」あり)


私にとっては、佐藤健のまなこ映画だった(「リアル」か否かはともかく、それが開くところで終わるんだから)。その眼は病室のガラス越しでも車のフロントガラス越しでもいささかも光を減じることがなく、綾瀬はるかの後頭部から片方だけ覗いている時には恐怖を呼び起こす。
彼の足の映画でもあった。アクション映画じゃ動きっぱなしで案外目に留まらなかったのが、初めてまじまじと見たところ、とても面白かった。綾瀬はるかの家でおもちゃを見つける場面で最もよく観察できたんだけど、第二関節と第三関節の間が盛り上がった、珍しい形。タオルなんて何枚でもたぐりよせられそう(笑)それこそ恐竜みたいでもあるし、人間として「進化」しているようでもある。
主役の二人とも「衣装」に意匠が凝らされており、佐藤健の方は常に七分丈のパンツで、裸足が強調されている。室内で彼だけがスリッパを履かず、外出時の靴もいつ履いたのか脱いだのか判然としない。


黒沢作品を劇場で観た感想としては、誠実さを感じる一方、自分はサービスの対象から外れているという印象を受けた。「光」や「風」、倉庫内の向かいの扉にピントが合う「布石」など、あまりに布石「然」としており馴染めない。
「人の『意識』の中を映像化する」という、映像作品ならではの面白さを活かした映画だからこそ、「普段」は気にならないこと、「哲学的ゾンビを存在たらしめている者が消えたのになぜゾンビが映ってるの?そもそもこの作品における哲学的ゾンビって何なの?」などの疑問を抱いてしまう。また、例えば「哲学的ゾンビ」のとある者達を綾瀬はるかが「答えられないのね」と責める時、それは「どういうこと」なのか(誰のどんな意思によってそういう状況が発生しているのか)、どうしても「考えてしまう」も、話はどんどん進んで行くから、ついていけない。
頭の固さゆえだろうけど、結局、中谷美紀が眠っている人物に語り掛けているような、「制約のある」場面の方が、面白いと感じてしまう。まあ特にこういう映画の場合、あの場面だって色々な受け取り方が出来るんだろうけど。つまり私は、ある種の「自由」の手綱を作者に握らせたくないんだな(笑)


いわゆる「大オチ」が判明する場面は、表面的にはセリフで説明されるだけなんだけど、「見る」「思う」側だった人間が「見られる」「思われる」側でもあった、ということが映像の変化にも現れているような気がしてぐっときた。私はここからの方が楽しめた。綾瀬はるかが結局「いい人(観客にとって親しみの持てる人)」だったのはつまらないけど、例えばこちらにとって「哲学的ゾンビ」が怖いのは、それそのものよりも、それを何とも思っていないらしき作中の「自分」以外の人が怖いわけで、「自分」は単独である必要があるから、仕方ない。
面白かったのは、「目覚める」時に「病院の人」に掛けられる声って、自分の体験じゃなくても(むしろ傍で聞いてるほど)何となく「怖い」ものだけど、そのそこはかとない怖さが十分に、しかも何度も表れてたこと。中谷美紀の声ってあんなふうだっけ、と思った。
ぞくりとしたのは、佐藤健と話すその中谷美紀が「ルーミィねえ…」と口にする場面で、彼女の後ろをエキストラが通り過ぎる場面。大体なぜあの状況で彼女のどアップなんだ、それだけで怖い。こういう「理屈」のつけられない画って好き。


それにしても「首長竜」があんなに大活躍するなんて思わなかった(笑)水面下(入江?)をゆく場面がとてもよかった、なぜ「よかった」かというと、私も夢の中でああいう映像を見るから、というくだらない理由なんだけども。