TOKYOてやんでぃ



落語を扱った映画だということしか知らず、公開初日に観賞。昇太の「悲しみにてやんでぃ」を原案とする、劇団「うわの空」の同タイトル作を元にしているんだそう。
変な言い方だけど、「映画」を観たって感じはせず、「落語」を扱った話だとも思えず、でもつまらなかったというわけではなく、他の何かを観たって感じで、楽しかった。


「プロローグ」と「エピローグ(エンドクレジット)」、時折挿入される客席の風景を除き、舞台は「とある日の寄席の楽屋」に限られている。舞台の映画化ってそういうことかと思った。「噺」が一切聞こえないなどの舞台ならではの見せ方と、映画ならではの見せ方が上手く合わさっており、とても観易い。
ただ「見どころ」に勝手にピントを合わせられるのには大きなストレスを感じた。比喩じゃなく、「映画化」の際の気遣いなのか、例えば同じカットでも手前の人物が喋る際は彼に、次いで奥の人物が喋る際には次の彼にピントが移動するので、この人がこんなこと言ってる時、あの人はどんな顔してるだろう、と思ってもぼやけて見えない。私の目の自由を奪うな!と思ってしまった。加えて偏見だけど、特にドタバタが最高潮に達するあたりのギャグのセンスの「舞台」っぽさには、少々馴染めなかった。


寄席の中では一番馴染みのある末広亭が舞台なので、「裏の喫茶店」って「楽屋」のこと?ピカッチの友人が「隣に出てる」って、昔ならコマ劇のことかな、今はどこのことだろう?なんて色々考えるのが楽しい。
私は落語となるとどうしてもお客側に立ってしまうのか、観終ってすぐ、というか観ながらずっと考えてたのは、気持ちの問題として、この日の木戸銭、幾ら払えるかってこと。まあ1500円ってとこかな(笑)これは映画なんだから!と思えず、(客の目からすれば)すかすかの楽屋に、早く真打がいっぱい来ないかなあと気を揉んでいた。
「前座から二つ目まで数時間」という「ありえなさ」を最たる例として、そもそも前座があんな口利くわけない、などと思い始めは乗れなかったけど(笑)慣れてくると、そういう「ありえなさ」もいい。ただ映画って「舞台」に比べると「ありえなさ」が悪目立ちしやすいから、(「一般」「落語」共に)「ありそう」「ありえない」の比重が、もう少し前者に傾いていたらなあと思ってしまった。


映画の最初と最後は東京の夜景。昇太の噺が大元だからってわけじゃないけど(笑)江戸の空気は無い。だからこそ、逆に「てやんでぃ」なのかな。間違っても江戸っ子じゃない私にも馴染みやすい(笑)
伊藤克信(と、でんでん)、ラサール石井石井正則らがそれぞれ持ちネタ?を口にするので、小松政夫も何か言うのかと思ってたら、役柄がキザすぎてそれどころじゃなかった(笑)唯一出演する「本当の」落語家、金原亭世之介は、一声で「落語家」と分かる。どっちが上とかじゃなく、落語家と役者の喋りって違うものだなあと思った。