私が、生きる肌



軽やかで可笑しく色々考えさせられる、アルモドバルらしい、面白い作品だった。
アルモドバルの映画を観ると「連鎖」という言葉が思い浮かぶ。本作もそう。人々によって作られる、のたうつ物語の中で、死ぬ者は死に、生きる者は生きていく。


「女」、ベラ(エレナ・アナヤ)はヨガのポーズで登場する。私は裸なのに顔だけ化粧してる状態に違和感を覚える(化粧をじゃまに感じる)ことがあるので、彼女の、きれいに整えられた顔とボディストッキングにつつまれた体という組み合わせをふと「当たり前」に感じて面白かった。「化粧」は本作の重要な要素。でも、気をつけて見てたつもりなのに、彼女がどの時点から「化粧」し始めるのか分からなかった。
「男」、外科医のロベル(アントニオ・バンデラスは「顔は人間の命」というセリフで登場する。私もそう、顔だけは絶対に「自分」のものじゃないと嫌…などと思っていると、そういうことじゃない。化粧にせよ顔にせよ、これらは物語の中で「意味」を持つ。


閉ざされた屋敷に予期せぬ訪問者が…という冒頭は昔懐かしい雰囲気で、それこそブニュエルを思い出す。中盤はバンデラスの撮られ方が恐怖映画みたいで、これまた懐かしい雰囲気。全篇に渡ってそうした「古きよき」映画の匂いがする。
前半は、「変な」人々の「中心」にいる「女」が一人だけ「まとも」…というよくある図に感じられ、それが不満だったけど、話が進む…「遡る」と、全く違うものが見えてくる。「双方」がしっかり描かれてるのがいい。○○○が軽々と扱われてるのも好み。


(以降「ネタバレ」あり)


トラの衣装の男がベラを襲う時のセリフからして、危険な推測だけど、ロベルの妻は「顔」だけの存在だったのかもしれない。そう考えると、これは顔(オモテ)にこだわった馬鹿が可哀相な目に遭う話のようにも思われる。最後までベッドの脇に飾られた妻の顔の写真が切ない。またロベルは「馬鹿」だったから、早くにうちを飛び出したトラ男と違い、母親から離れずにいたのかなとも思う。まあ何だって、しょうがない。


あふれる本棚の中での会議、クロークのコートの群れの前での会話、洋服屋さんの小窓。大小の「モニター」…でかいスクリーンの前で女と逆向きに横たわるバンデラス、水槽の中の小魚を飲み込むかのようなトラ男。服を「着せる」行為、テレビのヨガ番組。でも一番アルモドバルを感じたのは「台所で女が縛られる」画。布を口に詰め直す場面のあの味わい。女はマリサ・パラデス、そのキャラクターもアルモドバルらしい。


ロベルと同僚の医師が、医療用の手袋をつける場面も印象的だった。私はあれを見ると、子どもの頃読んだクリスティのある作品(大きな「ネタバレ」なのでタイトルは伏せる)を思い出す。