アンネの追憶



アンネたちを詰めた貨車がアウシュヴィッツに到着すると捕虜の楽団が演奏を始めるのに、そういや前回スバル座に来たのもナチスを扱った「善き人」(感想)だと気付いた。そちらではラストに楽団が出てくる。


原作はアンネ・フランクの親友、ハネリ・ホスラーの証言をまとめた「もうひとつの『アンネの日記』」。映画の終わりに、人物創造は歴史的事実に基づくもので意図はないとのテロップが出る。そして、物語の冒頭に乗車を拒まれたメリーゴーランドに笑顔で跨るアンネの姿が延々と映り、バックにはモリコーネによる、覚えられないけど印象的な音楽が流れる。このラストが良くて、久々に、エンドクレジットが終わるまであっという間だと感じた。


おそらく初めての登校を不安がる金髪の女の子に、黒髪の女の子が近付いてきてベルでもって笑顔にさせる。名を聞かれた黒髪の子の第一声は「My name is Anne」。二人は親友となった。満員の路面電車の中で「席を譲って」とふざけ、男の子の前に出る時は胸に紙を詰めてふくらます。アンネが世の中に気配りし、また世の中の優しさに甘えて育っていたと思われる、面白いオープニングだ。
しかしその後はどうも引き込まれない。そもそもアンネ・フランクものは、アンネの(描写からも分かる)性格が面白いのに、彼女が日記を書き終えた後のことを、周囲の人々のことも交えて描くんじゃあ、よほどじゃない限りぱっとしない。物語は、アンネの父が彼女の「50回目の誕生日」に子どもたちを前に話す内容という形を取っており、「ぼくは君たちに伝えた、だから君たちも誰かに伝えてくれ、そうして伝えていかなくてはならない」とテーマもはっきりしているから、その目的が達せられていればいいんだろうか。


収容所での夜、監視のライトの元、ハネリに会いたくて這い出ていくアンネの姿に、そんなことしたら他の人(母親や他の捕虜の人)に迷惑が掛かるじゃん!と若干苛々してしまった。私の心が善くないからじゃなく、映画の作りのせいだと思う(笑)加えて、こういうことめったにないんだけど、アンネ役の子の顔が受け付けなくて、どアップのたびに苦痛だった。
何度か描かれる、ささやかな希望が打ち砕かれる場面が切ない。貨車からのぞき見えた米軍機に向かって皆で「おれたちはここだ!」と叫ぶが行ってしまう、アンネの父は一言「ユダヤ人のために戦ってるわけじゃないのさ」。ドイツ人捕虜との「交換」は、トラックに乗りこんだところで中止となる。しかしその後も捕虜交換の噂は人々の口にのぼる。どういうふうに広まったのか想像すると哀しい。


作中、アンネの日記帳は彼女の死後に父の手に渡り、「この中に娘は生きている」と彼を救う。彼がまとめた私家版はハネリの手に渡り、「(作家になるという)夢をかなえたのね」と彼女を微笑ませる。「アンネの日記」が、彼女に近しい人には色々な意味を持っていた可能性があるんだ、と初めて気付かされた。