人生フルーツ



オープニング、一軒家の玄関に掲示された「宅配便の皆さま、ごくろうさまです」と書かれたプレートに、私にもこういう気持ちがあり、伝えたいけれど、マンションで実行すると気味悪がられちゃうよなあ、などと思っていたら、この家には実にたくさんの「プレート」があるのだった。「庭」の「たけのこ、こんにちわ」「甘夏、マーマレードに」など、誰に向かって語り掛けているのか分からず混乱してしまった。


東海テレビ放送制作のドキュメンタリー」程度の情報でもって見に行ったことに加え、建築にも無知なため、序盤早々に「謎解き」がなされる作りに驚き、面白く見た。冒頭に示される二人の、いや男性とその妻の(元同僚いわく)「スローライフ」の「意味」が明かされるのだ。建築家の津端修一氏は、なぜこのニュータウンの一角にこのように暮らしているのか。これは「何」なのか。


修一氏いわく「日本の都市計画はいんちきばかり、作った人はそこに住まない」。マスタープランを任されるもその通りには建設されず、山を削り谷を埋めてしまった高蔵寺ニュータウンに対して責任を取るかのように、そこに購入した土地で「一人でも里山を作れる」という実験を始めるのである。現在の二人が「庭」をいじる低い柵の向こうを、子ども達がゆく。「謎解き」の後では、あのようなプレートの訳も、何となく体で分かる。


「男性とその妻」と書いたけれど、この映画はそれがこの「二人」であるという話である。「女はいつも笑顔で、夜以外に横になってはいけない」と教えられてきた英子氏の、夫のすることを全て受け入れ、夫に「指導されて」の65年。食事の後に美味しかったと言う男性であったという「幸運」と彼女の強さ。終盤、修一氏亡き後に一人でじゃがいもを植える場面で映る、おそらく作中唯一彼女が書いたプレートには「じゃがいも 8月」とだけあり(修一氏ならそれだけということは多分無いだろう)「今」だからそうとしか書かないのか、それが彼女のやり方なのかと考えた。


修一氏が幾多のプレートに塗る色も目を惹いた。彼は「(作物を植えた場所などに立てるものだから)注意を惹くために黄色く」と言うけれど、そういう塗料なのか木に塗るとそうなるのか、私が「黄色」と聞いてイメージするのとは違う、目に優しい、気持ちのいい色なのだ。うぐいす色に近い。それがセンスなんだな。


修一氏について、日本住宅公団の後輩は「高蔵寺の件が最初の挫折だったとは思うけど、ああいう『スローライフ』に走るというのは、私には分からない」。施設の設計を依頼した伊万里のスタッフは「道具も錆びついておらず、スケッチブックだってすぐ出せる、いつだって準備が出来ていたのに、誰も彼を求めなかった」。本人はというと、私だって「推し量る」ことしか出来ないけど、多分、ただ「一人で、やれることを、こつこつと」「生きている限り最善を」尽くした。あれこそが、「個人」として「社会」に生きる、まっとうな一つの例じゃないかと思う。それを二人がそれぞれやってきた。


英子氏は「もう美容院なんて」と食器棚のガラスの前で髪を結う。しかし台湾を訪れた際、二人がホテルを出てタクシーに乗り込む姿にフランク・ロイド・ライトの「人生は長く生きるほど美しくなる」という言葉が被るが、その後の写真館で梳かされる彼女の白髪の美しいこと。それはまるで、「禿げ山」に修一氏が発起人となって蒔いたどんぐりの苗木が林になったようだとも思った。作中最後の修一氏の後ろ姿だってそう、豊かだった。


単純に、私の故郷の愛知県が舞台だというのも楽しかった。高校時代には春日井から通っている友達もいたし、半田の海も造り酒屋も「知って」いる。濃尾平野の海抜ゼロメートル地帯の生まれだから、伊勢湾台風ひいては水害についても小中学校の授業で叩き込まれている。それから名鉄バステレビ塔、栄の地下街、中日ビル、ある日に彼女が作ったおにまんじゅう!(私はこれが大の苦手で、親によると、保育園の献立表に見つけると前日からずっと気にしていたらしい・笑)


私としては「名古屋弁」(尾張弁?)が殆ど聞けないのが、そこにも意味を見出すと同時に寂しくもあったんだけど、満席の劇場内の近くの席で「(地名)!(地名)!」などと言っている男性こそ超、名古屋弁だったのが可笑しく、一緒に興奮したかった(笑)修一氏が亡くなった後の台風の翌朝、倒れた木を起こそうとする英子氏の口をついて出た「私じゃあがらんかね」にそれまでにないその土地の空気を感じたのには、たまたまなんだろうけど、はっとした。