Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち



ピナと親交のあったヴィム・ヴェンダース監督による3D映画。予告編が楽しいので観てみたら、亡きピナの伝記では勿論なく、彼女の舞踊団のドキュメンタリーというわけでもなく、言うなれば邦題通り、ピナの「踊り続けるいのち」を受け継いだ者たちの今、を焼き付けた作品だった。ピナ自身の映像は少ないけど、彼女の真摯さや優しさが伝わってきて、あたたかい気持ちになった。煙草を手にした様子がいい。


まずはステージと空っぽの客席が同時にとらえられる。客席は後に埋まり、そのうち消える。でもその後も、私が実際に座ってるバルト9の劇場の、前方の客席がまるで映画の「ふちどり」のように感じられた。こんなの初めて。


初体験の「センター・オブ・ジ・アース」の時から、3D映画の最中ふとジオラマを見てるような感じに陥ることがある。ジオラマは好きだけど、それはすごく安っぽい感覚だ。本作でも冒頭から何度か感じてたのが、「カフェ・ミュラー」に至ってあまりに強烈になると、直後に団員二人が舞台セットのジオラマを前に語る映像が挿入されるので、見透かされたような気がして面白かった。更に実際「ジオラマ」として踊りが展開する場面もある。
そんな体験を踏まえると、3D映像がジオラマのように見えるのを逆手に取って、箱庭に閉じ込めたものにこそ無限の広がりがある、ということをしたかったのかなと思う。とはいえ非3Dのピナ本人の映像を見る団員たちの様子を3Dで見る、というのは奇妙に馬鹿馬鹿しく感じられた。


団員それぞれがピナに対する思いを語る映像が挿入されるが、彼らは言葉を発せず、その「思い」に即した、あるいは即していないかもしれない顔をしてみせる。ちょっとした「顔の踊り」だ。こうした「内容」を考えるのは監督なのか彼らなのか、表現者表現者を撮ってる場合、そういうところが気になる。
表現者による表現者の映画である本作は、ほぼ全篇が表現のぶつかり合いだ。織り込まれている4作品のうち、始めの「春の祭典」においては、ダンスを撮るにしてはあまりに「映画」的な映像(赤いドレスを捧げる女性のカットと、受ける男性のカットが交互に入るなど)に驚いたけど、以降はもう少し「ダンス」に寄り添った形になる。解釈をフィルムに焼き付けていく「映画」の作り手側と、その中でそれを超越するダンサーのせめぎ合い。しかしそれがゆえに「面白い」かというと私にはそうでもなくて、ラスト、客席、ステージ、その奥のスクリーンに映し出される、陳腐な言い方をすれば「素材そのまま」のピナの姿の方がよほど良かった。


舞踏団の踊りはどれも見ていて楽しい。団員によればピナは水や石など自然界のものを取り入れるのが好きだったそうで、舞台にそれらが活かされるのは勿論、屋外での踊りもふんだんにある。乗り物好きとしては、ドイツの懸垂式モノレールが何度も出てくるのが嬉しかった(一度など乗ってる視点も!あれだけでも見たかいがあった・笑)
彼らは踊りにおいてやたら「男女」に分かれたりペアになったりする。私はそういうの苦手で、例えばインド映画など、それがダメであまり観ないんだけど、本作では全然気にならない。根底にある自由のようなもの、のせいだろうか。