ポエトリー アグネスの詩



オープニングは川辺で遊ぶ子どもたち。遠くから何やら流れてくる。うつぶせに浮かんだ少女の体の横に「詩」とタイトル。
場面は換わり、病院の椅子には不似合いな格好の女性。薄い水色の帽子に白いストール、白い靴。その後もとっかえひっかえされる花柄の上着。外に出てから電話で「やっと腰を上げて来た」というようなことを言うので、わざわざ着飾ってきたのかと思うも、そうではないらしい。彼女はどんな人間なのか、心惹かれる冒頭だ。


主人公ミジャ(ユン・ジョンヒ)のアルツハイマーは、医師に「言葉を忘れる」と話したことから発覚する。彼女が同時期に、本格的に「詩」に取り組み始めるのは偶然だと思えない。数日前に観た「マンマ・ゴーゴー」(感想)に、アルツハイマーを発症した母親に向かって主人公が「ママはどこに行っちゃったんだ」と泣き崩れる場面があったけど、アルツハイマーが「自分」を失う症状とも言えるとすれば、本作は、「言葉」を使うことで「自分」を失うのを食いとめようとする過程の物語であると言えるかもしれない。


詩の教室の初日、講師はりんごを取り出し「あなたがたはこれを本当に見たことはありません」と、詩作における「見る」ことの大切さについて語る。ミジャは早速身近なものに目をこらし、手帳を持ち歩くが、言葉は出てこない。しかし見なければならないものの存在を知った時、初めて言葉が出てくる。突然、花の赤は血の色だと思い浮かぶ。
少女が飛び降りた橋を訪ねたミジャは、帽子を飛ばす風にふと目を細める。手帳を取り出すが、降って来た雨に濡らされる。後に少女の家を訪ねた際も、肝心の用事は思い出せないが、道々落ちていたあんずに激しいひらめきを得る(この後、帰路で「思い出し」「あることに気付く」時の演技がすごい)。「見る」決意をした途端に「見る」べきものが現れ、彼女の目は開かれた。しかし真に「見る」べきものには、自分から挑まなければならないのだ。しかも常に挑み続けなければ、彼女の体はそれを覚えていられない。


ミジャの人となりに興味を覚えずにはいられない冒頭から、様々なことが絡み合って行く、物語の進み具合が面白い。ゆったり提示してくれているのにこぼれ落ちたことがありそうで、もう一度観てみたいと思わされる感じは、最近だと「J・エドガー」(感想)に似ている。
「事件」は冒頭に始まる、あるいはずっと前から始まっていたとも言える。ミジャは「事件」のことを知ってからも、花柄の服を身につけ、ヘルパーの仕事をし、自宅で孫と生活し、詩について学ぶ。「人生で一番美しかった瞬間」を話す順番が来ると「ほんとうに愛されてると思った時のこと」を涙ながらに語る。もし「事件」のことを、「見る」べきものを知らなければ、彼女はああして語っただろうか?


終盤、とある人に「『おねえさん』、どうしたの?」と声を掛けられ激しく泣き崩れるミジャの姿に、彼女がこんなにも「一人」だったことに初めて気付いた。映画の冒頭からサインはあったのに、何らかの空気を感じてたのに、作中の彼女の周囲の人々同様、私も気付かなかった。


ミジャの孫に対して、よくこんなに不愉快な顔の子を見つけてきたなと思っていると、死んだ少女について「ブスだったそうじゃないか」「美人だったらどうだって言うんだ」というやりとりがなされ、それもそうだなと思う。作り手の意図なんて全然離れて、こんなふうにふと心を動かしてくれる映画が、私にとってのいい映画だ。