ヒストリーボーイズ


2006年のトニー賞で6部門を受賞した舞台の映画化で、8人の男子高校生が名門大学を目指す話。



男子・イギリス・80年代…というだけで楽しいけど、観ているうちに教員の方に心動かされた。
イメージばかりで何がなんだか分かっていない軍人タイプの校長が作った進学組を担当するのは、「寂しいホモエロおやじ」の文学教師ヘクター(リチャード・グリフィス)、ハリウッドでリメイクされたらキャシー・ベイツが演じるであろう歴史教師のドロシー、そして即戦力として雇われた、優男エリート風の臨時教師アーウィン。舞台の映画化だからか、先生・生徒いずれについても、学校外での日常や背景にはほとんど触れられないのが硬派で好み。
上記3人の指導風景からは、「世の中なんでもアリ」だなんて甘っちょろい(あるいは通過すべき)姿勢であり、顔を合わせたばかりの相手に対しても自分の意見を強硬に主張できるほど足元を固めておくことが、教員の最低限の資質かもしれないと思わされる。生徒はとにかく何かをやらなきゃならない、そのためには足場が必要なのだ。


校長の適当さのせいもあり、3人はまとまりのないまま、全く違う方針で授業を進める。一堂に揃った面接指導のぐちゃぐちゃさが可笑しい。
「イギリスの名門大学の受験」ってどんなものか知らないけど、作中アーウィンが行うトレーニングは論文作成が主だ。「覚えておけばいつか分かる」と詩を暗記させ、映画や歌などの要素を授業に取り入れるヘクターに対し、「オックスフォード出」の彼のモットーは「知識を総動員して…『隠し玉』を使って、他人とは違うことを主張しろ」。
ホロコーストについて(歴史の授業で扱えるか否か)議論する場面でのアーウィンの指導や、ヘクターのある行動がそのままにされるという内容はどうなのか?と思うけど、こういうこともある、という話なんだろう。



この作品で描かれるのは、人と人とのやりとり、そこから生まれるものだ。授業の途中、生徒主導で関係ないことに盛り上がったり、教師の側が感情をぶちまけたり、一対一での会話が進むにつれて空気が変化したり。
日本のテレビドラマのように受験勉強の過程を分かりやすくドラマチックに描いてはいないので、受験当日は普段と同じようにやってくる。大学を訪れて「お城みたいだ、うちの親に見せたい」と言うのが可愛い(彼等の家庭は労働者階級)。昔のマット・ディモン風のオッジ(スポーツばかりの自称「単純バカ」)が面接を受ける部屋のすごいこと。


自称「ユダヤ人でチビだから最悪」のポズナーは、社交的でどこにいても目立つデイキン(ドミニク・クーパー…どうしても「フルハウス」のおいちゃんを思い出してしまう)に思いを寄せており、一分一秒それを隠そうとしない。ちなみに彼だけでなく、ヘクターもアーウィンもゲイだけど(対象が細かく違うかもしれないけど)、作品にはいわゆる「ゲイ映画」の雰囲気はない。たまたまそういう人たち(そういうことをオモテに出す人たち)が集まってるのかなあ、という感じ。
またポズナーがダイキンに「ご褒美」に抱擁してもらうシーンを見て、全ての人間の色恋がこんなふうだったらどんなかなあと思った。誰もが簡単に迫れて、簡単に拒否できたら、どんなに楽だろう。社会的には有り得ないだろうけど(笑)


ところで、映画で有名な「ノーマンズ・ランド」という言葉は、ああいうときにも使うのかあ。80年代の(今ではちょっと古い)言い回しなのかな?ちなみにフィクションではよくああいうシーンがあるけど、なぜあんなことが出来るのか、私には理解できない…。